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2010/09/05 04:09:42
約1年ぶりの劇団四季のミュージカル観劇です。
誰もが知っているあの名作です。
子どもたちがとってもいい味を出していますよ。
ただ、映画の中のマリアは若い修道女なんですが、ミュージカルではおばさんだったので私のイメージとはちょっと違ってました。
そして、2女、3女、4女はオーストリア人風のカツラを被っているのに、5女だけカツラを被ってないから黒髪、しかも明らかに日本人顔なので、あらら?って感じでした。
でも、十分に楽しめるミュージカルです。
ここで勝手に劇団四季ランキング!
人によって好みは違うでしょうが、個人的なお気に入りの順番です。
①オペラ座の怪人
②キャッツ
③美女と野獣
④マンマ・ミーア!
⑤サウンド・オブ・ミュージック
⑥ウェストサイド物語
⑦ライオンキング
⑧ソング&ダンス 55ステップス
「ライオンキングが低すぎる!」って言われそうですね。
お付き合いなどで2回も観に行ったのですが、疲れていたのか2回とも途中で寝てしまったんですよ。
2010/08/28 08:08:35
<2006年12月15日(金)>
この日の予定です。6時45分にモーニングコール、荷物出しが7時30分、ホテル出発が8時30分でした。モーニングコールの時には、出発準備を終えていました。プラハでの2泊を終えて、今日はオーストリアのウィーンへの移動です。その途中で、世界遺産のチェスキー・クロムロフに立ち寄る計画となっていました。
昨晩の夕食の集合時間に間に合わず、皆さんにご迷惑をおかけしましたので、朝食のレストラン等で、それぞれにお詫びをしておきました。
<ウィーンへの移動>
今回のツアーは、チェコのプラハからオーストリア、スロバキアから最後のハンガリーのブタペストまでバスで移動の旅でした。運転手はスロバキア人のアロイスさんです。長い道中、ずっと安全運転でした。
予定通り8時半にホテルを出発しましたが、朝の交通渋滞に遭いました。しかし、それも考えようで、プラハ市内の歴史建築をゆっくり眺めながらの移動となりました。プラハ駅や国立博物館の建物などです。窓ガラス越ですが、車が止まった時に、これらの建物の写真を撮ることができました。
市街地を過ぎると、渋滞はなくなりました。あっという間に郊外の景色に代わりました。プラハの飛行場を飛立った飛行機雲が、斜め一直線に伸びて、青空を切り裂いていました。良く見ますと、長い飛行機雲には、その軌跡の中に、距離を置いて複数の飛行機が飛んでいました。
<中世の町、チェスキー・クロムロフ>
手元のガイドブック(ポケットガイド、プラハ・ブタペスト・ウィーン:JTB)から、簡単にチェスキー・クロムロフを紹介しておきます。今回の旅行で、特に印象が残った中世を思わせる街でした。
チェスキー・クロムロフは、モルダウ川がS字に曲がる箇所に沿って造られた1キロほどの街です。8世紀から最初の定住が行われ、ボヘミアの歴代の大貴族によって統治されてきました。
街は手工業と商業によって発展し、それぞれの時代を反映した建物で、次第に街が形成されていきました。その建物の数は約300です。1992年に世界文化遺産に指定されました。
チェスキー・クロムロフへ到着したのは、昼に近い時間でしたが、緯度が高いため、眩しい光が低い位置から射し込んでいました。アーチ型の通路を持ったお城の屋根付きの回廊の下を潜ると、まさに別世界が飛び込んできました。
<洒落たレストランでの昼食>
中世を思わせる街の通路は、全て石畳でした。その石畳の道を歩いて、中心部の広場に出ました。そこには、いくつかの露店がお土産の品を売っていました。
石畳の道を歩きながら眺めるお城や、教会の尖塔を眺めるのも、随分と興趣が湧きました。町全体が観光地となっていて、世界遺産に指定されているような家並みでも、お土産店の店先になっていました。レストランや、カフェーなどもあり、時間さえ許せば、半日くらいはのんびりしてみたい雰囲気の街でした。
お昼の時間になっていましたので、石畳の道をさらに進んで、石橋を渡りました。モルダウ川のS字カーブの狭まった箇所に掘られた水路の上に架かった橋でした。
レストランは、石畳の道を過ぎて、川沿いに少しだけ歩いた場所にありました。窓から見る景色も素晴らしく、中々お洒落な造りのお店でした。魚料理でしたから、白ワインをグラスで注文しました。
<チェスキー・クロムロフ城>
チェスキー・クロムロフ城は、チェコ国内ではプラハ城に次ぐ規模を誇り、13世紀に創建されました。当時、ボヘミアで力が強かったヴィートコヴィッツ家の分家の居城として造られました。
その後、領主が代わる度に増改築が行われ、16世紀にロジェンベルク家がルネッサンス様式に、18世紀初頭には、エッゲンベルク家がバロック様式に、さらに18世紀後半にはシュヴァルツェンブルク家がロココ様式に模様替えをしています。現在見る姿は、それらの様式が複合した建築となっています。
石段を登り、さらに石畳の坂道を登ってお城の中に入ることが出来ます。そこから一望するチェスキー・クロムロフの街は、まさに映画で見る中世の街、そのものでした。
1784年に造られた「仮面大広間」は、ロココ様式の傑作とされますが、残念ながら、お城の部屋の中まで見学する時間はありませんでした。理由は分かりませんでしたが、お堀跡と思われる場所に熊が飼われていました。丸々と太っていましたが、冬眠前の脂肪を蓄えていたのではなく、単なる肥満のようでした。バナナやリンゴのような果物が、山ほど餌場に置いてありました。
<再び、ウィーンへ向けて出発>
教会と岡の上の城砦を早足で巡りましたので、少し慌しいチェスキー・クロムロフの見学となりました。見学を終えた後、再びウィーンへ向かって出発です。プラハからチェスキー・クロムロフまでは約180キロでしたが、今度はウィーンまで、約270キロの長旅です。
チェスキー・クロムロフはプラハのほぼ真南になり、チェコの南部に位置しています。暫く走ると国境に達しました。国境での写真撮影は禁止されていると、ガイドさんの注意がありました。それとなく、監視されているようです。もし見付かった場合は、カメラかフィルムの没収があるようです。建物の中は、こちらから見えないようにブラインドが下りていました。
しかし、実際の国境警備の雰囲気に、厳しいものは感じませんでした。専らトラックの荷物検査に力を注いでいるようでした。こちらのレーンは長い列がありました。
途中、2度ほどの休憩をとって、ウィーンまでひた走りでした。走っている内にサンセットとなり、やがて暗闇に包まれました。
<ホイリゲでの夕食>
ウィーンはオーストリアの中東部のドナウ川の南に位置しています。プラハからは、やや東に位置していますが、ほぼ真直ぐの南下となりました。日がすっかり暮れましたので、ホテルにチェックインする前に、夕食です。順調なバス移動でしたから、勿論、予定通りのコースです。
今晩はオーストリア風の居酒屋、ホイリゲで、民族音楽などを聴きながら夕食です。バイオリンとアコーデオンの軽妙な演奏と、ワインを楽しみました。今回旅行での夕食の中では、一番記憶に残りました。
ところで、ホイリゲは単なる居酒屋ではなく、自家製の葡萄酒が提供されるウィーンの居酒屋のことを呼んでいるようです。ガイドさんのお話では、修道院で造られたワインが提供されているようでした。
フリー百科事典の『ウィキペディア』から少し詳しく引用しておきます。
17世紀後半、トルコとの戦争でウィーン市内ではワインを入手しにくくなったため、人々がウィーン郊外の農家に自家製ワインを買い出しに行くようになったのが始まりとされます。
1784年、神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世がウィーンの農家に販売許可を発令して以来、毎年11月11日に樽を開封し、向こう1年間、その年の新酒を販売するようになりました。ホイリゲとは、本来「今年の」新酒を指します。その後、自家製ワインと簡単な食事を提供する店の営業が許可されたのをきっかけに、自家製のワインと郷土料理を提供する居酒屋を、「ホイリゲ」と呼ぶようになりました。
食事の最中に演奏される小グループによる郷土音楽は、シュランメル音楽と呼ばれています。これは、19世紀半ばにウィーンで活躍していたシュランメル兄弟がホイリゲで演奏を始め、評判になったのが始まりといわれます。
<電車で外出、ホテルのバーでワイン>
ホテルへチェックインの後、直ぐに電車で外出しました。電車駅はホテルから歩いて10分以内の場所にありました。迷子にならないよ、駅の名前もデジカメに写しておきました。
切符の買い方も、ガイドさんからお聞きしていましたので、1ステップごとデジカメに収めました。こちらは写真編でご覧ください。表示画面を英語に切り替えることが出来ました。
電車は程なくやってきました。時間は22時を少し回ったところです。乗る前に、終電車も念のため調べておきました。最低料金の1.5ユーロで乗車できる、5つほど先の駅で降りました。
乗った時は高架電車でしたが、降りた駅は地下鉄になっていました。階段を登って駅前に出ましたが、街路灯が点いているだけで、寂しい感じでした。駅前では、立ち食いの小さな屋台が1軒あるだけでした。商店街の方は、シャッターが下りて、ショーウィンドウの明かりだけが点いていました。
居酒屋を探すのは諦めて、早々にホテルへ戻りました。1階にバーがありましたので、白ワインを飲んでこの日のお開きにしました。
チェスキー・クロムロフで
モルダウの流を南に遡り訪し街は今も中世
城砦に登り望みしモルダウはその懐に抱く街あり
昼なれど朝日の如く影長く片手翳して街眺めおり
ホイリゲでの夕食
ホイリゲは自家製ワイン酒場なり修道院で醸すその酒
耳元に演奏を聴くホイリゲの至福の時過ぐ地酒ワインで
2010/08/26 07:08:47
お天気は晴れだが、外灘には霧。
5ヶ月にわたる東南アジア、中国雲南省の旅の終わりだ。
今日は、日中フェリー新鑑真号に乗って、神戸港を目指す。
チケットは往復を上海で買ったので、また戻ってくる。
ユーラシア大陸自由自在の旅を極めるには、ホンの始まりに過ぎない、今回の旅行は小手調べとしては、マアマアの出来だっただろう。
何か、夫婦バックパック旅行のコツが分かりかけた、というところか。
早く中国を極めて、次のステップに進みたいモノダ。
などと考えながら新鑑真号の旅を楽しみました。
新鑑真号 中日国際輪渡有限公司(上海)のURL;
http://www.chinjif.com
日中国際フェリー(株)のURL;
http://www.fune.co.jp/
現地ネット環境劣悪のため緊急避難ページあり。
http://www.geocities.jp/ariyan9907/2007-1yunnan_040.html(フリーサイズ写真で見やすくなっています)
2010/08/25 11:08:12
緑陰や 歴史の闇を 覆う涼
瀋陽北駅を8時55分に、ハルピン行きD173で出発し、11時07分に長春に到着した。
この日の朝の瀋陽北駅は、すでに人で溢れていた。まずは荷物検査で、押し合いながら検査機に荷物を載せ、出てくる自分の荷物を慌てて確保する。引き続き、改札口での狭き門を潜り抜け、荷物を転がしながら、長い通路を押し合いながら歩き、2階分相当の高さは確実にある階段を、荷物を抱え込んで必死に下りる。日本であれば、グリーン車は列車の中央付近にあるので、プラットフォームの階段近くに停まるが、中国でも、階段は、フォームのほぼ中央付近にはあるのだが、軟座車は1、2号車であるので、フォームの端のほうに停まる事となり、軟座車の乗客は、荷物を転がしながら駆け足で、フォームの先端付近に向かわねばならない。かくして、この時も、席にはやっと坐ることが出来たのだが、車内気温は24度なのに、なぜか汗が止まらないのである。D173の車内はほぼ満席である。窓際に坐ることが出来たので、車窓から満州の平原を眺めながら行こうと思っていたが、動き始めて間もなく、睡魔に襲われ、邯鄲の夢枕を握り締めながら、気がつくと長春駅に到着していた。満州平原をゆっくり眺めながら、汽車の旅を楽しもうとの企てが、果たせなかったのは至極残念であった。
1898年、ロシアは、中国より、ハルピンから旅順までの東清鉄道の敷設権を得て、1901年に開通させた。長春では、現在の長春駅の北西方に「寛城子駅」と、その周りに「鉄道付属地」を設けたが、長春城から離れたところであったために、長春そのものは殆ど発展しなかったようだ。
日露戦争で、旅順から寛城子(長春)駅までが、日本側に引き渡され、国策会社の満鉄が経営する南満州鉄道となった。その後日本は、現在の長春駅を鉄道付属地に新設し、それを起点に、長春の都市計画・開発に乗り出したのである。当初、ローカル駅であった長春(寛城子)の地位は、日露戦争の結果、一変した。
長春駅前のタクシー乗り場で、しばし並び待たされた上で、タクシーに乗ることができた。重慶路にあるアメリカ系のディツホテルへと言うと、運転手は、料金は15元だと言い、メーターを倒そうとしない。運転席の後ろには、基本3キロまでは6元、600mごとに3元と書いてあり、メーターを倒さない時は、支払いを拒否してくださいと書いてある。この料金の支払いをどうするかと言う、長春での早々の難題に悩みながらも、目は街並みを眺めていた。露店が並ぶあたりを抜け、車が渋滞する中を走り、やがて店舗ビル群が集積する高度商業地にある大きく細長いショッピングセンターのような建物の前で停まる。ベルボーイが走ってきて、荷物を取り出し、扉を開いて待っていてくれるので、結局黙って運転手に15元を支払い、建物の中に入る。この建物は7階以上がホテルで、6階まではデパートのようで、レストランなどもあるようだ。午前中であるので、部屋の多くは未だ掃除中であり、すでに掃除が終わっている部屋に、ワンランクアップしてくれる。部屋は8階にあり、長い廊下を歩き、やっと887号室に辿り着く。昨日の瀋陽では60㎡の広さであったが、今日はそれよりもう少し広い部屋であった。荷物を整理し、正午近くになったので、食事をしに街へ出ることとした。この街では、昼食はやはり餃子であろうと思い、老舗の東方餃子王の,南湖の近くの工農大路にある本店に行くこととした。まず重慶路を東に向かい、駅から一直線に南に延びているメイン道路である幅員54mある人民大街(旧大同大街)を右に回り、人民広場のロータリーを過ぎ、吉林大学まで南下、南湖大路との交差点を鋭角に右折し、工農大路に入ったあたりで下りる。
右手の3階建ての大型店舗が東方餃子王の本店である。午後1時近くであったが、駐車場は車がほぼ満車状態であり、店内はとても賑やかな状況である。ウェイトレスの案内に従いエレベーターで3階に向かう。3階はいくつかの部屋に分かれており、案内された部屋には、ぎっしりと席が設けられているが、すでにどの席も人で埋まっているようであったが、やっと窓際の柱の蔭に、狭い席を確保することができた。
注文は、料理名を書いた注文書に印を付けて、係員に渡すのであるが、注文の仕方がもうひとつ良くは分からない。餃子の注文は2両以上と書いてある。蒸し餃子は1両で6個、焼き餃子は4個ということが分かったのだが、今度は大きさや、どのような具なのかが良く分からないので、辺りを見ながら、うまそうなものや、その量などを推し量っていたのだ。結局2,30分かけて注文したものは、海鮮餃子の、焼きを8個、蒸し12個、それに少し甘い包菜とジャガイモの細切りの湯煎したものである。
料理が運ばれるまで、退屈しのぎに部屋の中を見渡していると、何種類かの、幾皿もの餃子を食べながら、大声で談笑するグループ、料理が運ばれてくるのをつまらなそうな顔をして待っているグループ、主張を通すのはこの時とばかりと喧々諤々の議論を発しながら注文をしようとする人たち、その間を縫って、手にたくさんの餃子の皿を持ち、手馴れた仕草で目的のテーブルに向かうウェイトレスの軽やかなステップ。この華やかで賑やかな喧騒、取り留めの無い談笑にも、やがて腹が満たされていく僅かな時間を共有すると言う連帯感からだろうか、次第に楽しい雰囲気が、全体に醸し出されてくるのだ。こうした中に身を沈め、料理が運ばれるのを待つのが、僕の一人旅の、常なる楽しみであり、中国の旅の中で、何かほっとする一時でもあるのだ。
それほど待つことも無く、注文したものは順次は運ばれてきた。そして青島ビールを飲みながら、ここでの昼食を楽しんだのだ。
1932年3月1日、満州国政府は『建国宣言』を発表、年号を大同、国旗を新五色旗とする布告がなされた。3月6日午前7時30分に、溥儀は、旅順大和ホテルを出発し、旅順・大連間の旅大道路を自動車で沙河口駅に向かう。午前9時8分沙河口駅発の急行に乗り,午後1時49分、湯崗子駅に到着する。前年天津から脱出した折、最初に泊った満鉄が経営する対翠閣旅館に、この時は2泊宿泊する。
この日、湯崗子に到着した溥儀を待っていたのは、板垣征四郎関東軍高級参謀であり、日付記載のない一枚の文書に花押させる。いわゆる、満州国が、実質日本の植民地、その傀儡政権として溥儀が枠組みされる“日満議定書”の添付書類である。
8日午前8時、特別列車で湯崗子駅を出発、途中公主嶺で、吉林省長官熙洽の出迎えを受け、午後3時長春駅に到着する。建国後満州国外交部となる長春市政府庁舎に向かう。長春は前日の7日の夕方から戒厳体制がとられており、9日午後3時、執政就任式を長春七馬路の長春市政公署において行われるが、儀式は僅か30分で終了する。2年間の執政政府を経て、国民の強い要望で、帝国政府に移行すると言う、当初からのシナリオ通りに、第一幕が始まったのである。
東方餃子王を出ると、前は、南湖公園(旧黄龍公園)である。大きな人造湖、それを取り巻き、森林浴が出来るほど森が続く。東口から中に入り、腹こなしの散歩に、斜めに走る南湖の湖畔路を歩き、新民広場に向かうこととした。夏休みなのか、この湖で水泳や舟遊びを楽しむ人、湖畔を散策する人、ゲームをする人、自転車や電気自動車で公園内を走る人など、市民の憩いの場所である。南湖公園の正門の前には新民広場がある。五叉路のロータリーになっており、車は絶えず走っているが、歩行者用の信号が無いのである。その上道路の幅員はとても広いのである。歩行者はどうして横断するのだろうか見ていると、車の間を、走ることも無く、ゆっくりと歩いたり、停まったりして、渡り切っていくのである。車の量と、道路の巾を考えると、このタイミングを体得するには、少し時間を要するのではと思いながらも、前に進む必要から、思い切って渡り始めたのだが、どうしても足が段々速くなってしまうのである。些か息を弾ませながら、新民大街に辿り着く。
北の文化広場(旧皇居予定地)から、南の新民広場までは、幅員の広い新民大街がまっすぐ走っている。この道路は、満州国時代は順天大街と呼ばれ、官庁街であった。この真ん中、今の朝陽公園あたりに順天広場があった。
中国のホームページを開いてみると、順天大街の“順天”とは、東北人(中国人)は、日本の天照大神とその子孫である天皇陛下の思し召しに従い、反抗してはならない、と言うことを暗示しており、文化広場に接して東西に走る解放大路は、当時“興仁大路”と呼ばれていたのだが、“興仁”とは、天皇裕仁は、東北人が、精神的奴隷として酷使されることに関心があられるのだ、と言う意味と説明している。漢字の国では、名前などをつけるときは、立場の違いでいろいろと解釈されことを前提に、事前に使用する文字を、十分に考えておかねばならないようだ。
1934年3月1日午前8時半、溥儀は新京郊外の杏花村の【順天広場】(現在の朝陽公園)に設けられた天壇に登り、清朝の礼に則り、天命を受け皇帝に即位したことを天に報告する告天礼を行った。【大同広場】(現在の人民広場)より郊外の式場までの大同大街(現在の人民大街)の両側に向き合って、着剣した銃を持つ日本軍が、銃剣をつけていない満州軍の後ろに立つ以外、まったく人影が無かったと言われている。
引き続き、この日の正午、仮宮殿の【勤民楼】において、溥儀は満州国陸海空軍大元帥正装で,登極の儀が挙行された。そして、元号は康徳、国号は満州国とすることが宣言され、溥儀は皇帝に就任、康徳帝となった。
同じ日に2回皇帝即位式を行ったのは、清朝の復辟を意識する溥儀と、新たな帝國の創出を示さんとする関東軍との、同床異夢、その妥協の結果であったのだろう。
新民大街(旧順天大街)の南端にある新民広場を取り巻くロータリーに、東から合流する自由大街沿いには、【総合法衙部】(現:軍461医院)、【興農部】、【文教部】が並んでいる。新民大街は、両側の歩道は、黒松の並木であり、道路の中央部分は、松のほか、槐やアカシヤなどが植えられ植樹帯があるため、車道は2つに分けられている。
僕は、新民大街、嘗ての順天大街を、南から西側歩道を歩いて、北上して行った。最初にあったのが、【交通部】(現:吉林大学公共衛生学院)である。さらに北上すると、【経済部】(現:吉林大学第三臨床学院)があった。そこから樹木の密集する地域となったのだが、このあたり一体は、嘗ての順天広場の一部であろう。さらに北上し、東側歩道に面して【司法省】(現:吉林大学医学院本館)がある。そして文化広場(嘗ての皇居予定地)に突き当たる解放大路との交差点の西角は【軍事部】(現:吉林大学白求恩医学院第一臨床学院)、東角は【国務院】であり、その正面にある銅像には見覚えがある。傍によると、昔中国語を少し習っていた時のテキストに載っていた、日中戦争中戦死したカナダ人軍医ペチューインの銅像であった。現在は、吉林大学白求恩基礎医学部となっている。
このあたり一体の都市計画は、皇居の南に、満州国の官庁街が広がるという、東京の皇居と霞ヶ関の構図が見られる。長春にある日本が建てた建物の様式は、長春大和ホテルの「アールヌーボー様式」、電信電話株式会社の「国際様式」などが見られるが、満州国建国後は、「興亜様式」と言うより、「帝冠様式」と呼ばれる建物が多く見られる。下は鉄筋コンクリート造、屋根に瓦を載せた日本風というか、当時は、帝国の様式を外国の様式の上に冠せるので「帝冠式」と名づけられたらしいのだ。国家の威信、権力の誇示、国粋主義といった当時の風潮と結びついて、内地や、朝鮮、台湾、樺太、そしてここ満州にも、官公庁の建物を中心に広がっていたようだ。人民広場(嘗ての大同広場)に面して【満州電信電話会社】、【満州中央銀行】がある。そして駅から南に走るメイン道路である人民大街と新発路の交差する北西角に、【日本関東軍司令部】があり、典型的な帝冠様式の大規模な建物である。現在は、共産党吉林省委員会本館になっている。天守閣を2つ持つ建物のおかしさと、当時も今も、この地方を支配する組織が使用している意図を想像しながら、写真を撮ろうとしたら、警備をしている武装警官に注意された。それでも諦めきれずに、少し離れた道路から、望遠で写真を撮ったのだ。帝冠様式の建物を見て行くうちに、故郷の県庁と、その隣にある市庁舎を思い出したのだ。ともに昭和の初期に建てられた天守閣をもつ帝冠様式の建物であるのだが、この街は、昔から“城で持つ”と言われた城下町であり、役所建物の屋上に天守閣があっても違和感どころか、この街とマッチして、落ち着きのある官庁街を形成している。長春の街にある、二つの天守閣を持つ関東軍司令部建物の趣味の悪さは、どのような意図で建てられたのだろう。そして侵略の象徴のような建物を、共産党の省の本部として当然のように利用し続けている意図は何処にあるのだろうか。帝冠建物の持つ、権力の誇示を強く意識しているように、僕には思えるのだが。
満州国皇帝の皇居が完成するまでの仮御所であった建物が、【偽満皇宮博物館】となっている。仮宮殿の敷地内には、天照大神を祀った【建国神廟】があった。溥儀は臣下を従え、月一回参拝したようであるが、信仰まで強要されていたのである。関東軍司令部の近くの人民大街、当時の大同大街に、天照大神を祀る【新京神社】が建てられたのだが、この鳥居の前を通る時は、中国人は脱帽して最敬礼をさせられたので、それがいやで、大回りをしたと言う話を、読んだことがある。
ともあれ、満州国は13年半で崩壊したため、溥儀は、新宮殿に入ることなく、この仮御所で過ごした。公式謁見殿の【勤民楼】、皇帝皇后の生活区である【緝煕楼】を、彼の日々の思いを想像しながら、見学した。溥儀にとっては、最後の一幕芝居の、主役を務めたのだが、悲劇とも喜劇ともつかない曖昧な芝居のためか、彼の大根役者のせいか、決して人気は博さなかったのだ。
正直言うと、旧満州への旅は、これまでなかなか決断が着かなかった。日本人としては、なんとなく行きにくいところと、勝手に思っていたのだが。
中華系の国では、この13年半の奉天、吉林,黒龍江、熱河の四省で作られた五族協和の国を『偽満州国』と呼び、実質的に国家であったことを否定している。日本人の間では、満州については、無関心と言うより無知、あえて避ける人も多いのだろう。しかし、語れば、左翼史観の偽満州論を叫び、赤い夕日が地平線の彼方に沈んでいく姿に感激する懐古主義に酔い、残留孤児、婦人たちの悲惨な大陸物語に涙を流すのである。苦しかったがゆえに懐かしいと言う思いもあろう。
敗戦により丸裸になり、ゼロからの出発となった日本の戦後復興は、第一に、当時の人々の生きるための必死な戦いの賜物であることには違いない。しかし、僕はこの旅で感じたことは、戦後の日本の繁栄には、この満州での人々の出会いに、多々負うところがあったのではと、思わざるを得ないのだ。
国は滅びたのだが、満州国という実験・研修機関で培われた、産学政官の隅々まで広がる人脈、あらゆる分野で、実施または計画の俎上に乗せられ、そこで得られた詳細なソフトデーター、そして軍指導による阿片などのの密売で稼いだ資金は、謀略懐柔にばら撒かれたといわれているが、戦中戦後密かに内地に持ち込まれた資金も少なくは無く、人も、資金も、ノウハウも、バラバラで、内地へと引き上げてきたのだろう。戦後僅かな期間に、日本は、無から高度成長経済へと展開したその原動力を考える時、国際情勢の中で、タイミングを図りながら、満州国での仕組みが、焼け野原で順次、再び組み立てられて行ったのではと、改めて強く思わざるを得ないのである。
痴れものの 戯言を噛む 火神鳴
閑話休題。指揮者小沢征爾は,満州建国2年後の1935年瀋陽で、歯医者の息子として生まれたのだが、父は、満州国の建設に情熱を注ぐ満州青年連盟の熱心な会員であったようだ。息子の名前は、実質的に満州国を作り上げ、瀋陽の柳条湖の記念館に首謀者としてただ二人、そのレリーフがある、当時関東軍参謀の板垣征四郎(後に陸軍大将、A級戦犯として死刑、靖国神社に祀られる)の征を取り、石原莞爾(後に陸軍中将、終戦時予備役、極東裁判では検察側証人、病死)の爾を取って、征爾とつけたそうだ。僕は、今、彼がオーケストラを指揮するに最もふさわしい場所こそは、生まれ故郷の中国の瀋陽だと思う。彼が名前の謂れを自ら語り、中国人に、音楽のすばらしさと、感動を与えることを大いに期待しているのだが。
2005年8月に開港された長春龍嘉国際空港は、市街地から東に約30キロのところにある。明るい現代的な空港ではある。空港に到着すると、搭乗予定時間が変更されており、その時間は未定となっている。空港内のバイキングのレストランに入り、待つこととする。結局3時間ほど遅れて出発することとなったのだ。飛行機の遅れ以外に、何時に無く、何やら気の重い、旅の終わりとなったのだ。(完)
2010/08/16 01:08:55
皆さぁ~ん!!
金魚の飼育は順調ですかぁ~?
そうっすか~!! すくすく育ってるようですねぇ~♪
けど、気を許しちゃぁ~いけませんよ!!
忘れないでね・・・“金魚を愛する心”
では、次のステップです。
品評会に出展して、市場へ出荷してみましょうね~♪
(金魚を初めて飼う方はこちらをご覧くださいね。)
↓
http://4travel.jp/traveler/sinnba/album/10365893/
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