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ロンパース 楽器に関する旅行記

桃源郷フンザを訪ねてカラコルムハイウエイを走る & パキスタ...

2010/09/04 11:09:51

「欧米で近く攻撃開始」 パキスタンのタリバン運動(2010.9.4 09:56)
http://sankei.jp.msn.com/world/america/100904/amr1009040958004-n1.htm



2000.5.8
フンザへの旅は初日にラワルピンディーからペシャームまで236kmペシャームからチラスまで206km、合計442kmを実走行時間9時間で踏破しようという長丁場のバスによるドライブで始まった。

バスに乗り込もうとホテルの前へ出て最初に目に入ったのは、銃を肩にした二人の兵隊である。警察かなと思ったが、銃を携帯しているのが物々しすぎるので軍隊かと聞いてみるとそうだと言う。何故軍隊がホテルの警備をしているのかと問うと、1999年10月の政変以来、軍部が主要なホテルや企業や政府機関に監視役として派遣されるようになったという。兵隊が目付役として駐在しているだけで、従業員の規律がよくなり、勤務中の私用や私話がなくなったし、賄賂が減って業務効率が向上したというのである。ガイドの話では検問所も軍隊が監視のため駐在するようになって、車がスムーズに流れるようになったし、民衆も今のところ軍事政権を歓迎しているという。政変以前のシャリフ政権の金権腐敗政治がそれほどまでに末端の規律を弛緩させていたとは驚きであった。シャリフ元首相は最近終身刑が確定したが、人の上に立つ指導者が堕落すると国を滅ぼすことになるという実例を見る思いであった。と同時に軍事政権がいつまでも続くと、ミャンマーや北朝鮮のような密告という人間のおぞましい性向を助長し、やがて民衆を新たな不幸に陥れるようになるのではなかろうかという危惧の念が頭を掠めた。

次に目に入ったのは赤や青色で派手に装飾した霊柩車の往来である。霊柩車と思ったのは実はトラックであった。走っているトラックはすべて赤、青、黄色、緑色などさまざまな色を使い、思い思いの絵柄で華やかに飾りたてている。しかもトラックは背高く荷物を積載しており、過重積載ではないかと思われるほどである。また小型トラックの荷台には人を満載し、後部バンパーを加工した踏み台にも人が立ったままでぶら下がっているだけでなく、天井にも何人かへばりついている。

バスはペシャーム目指して出発した。走っている道路の両脇にはユーカリの木が植えられている。この道はマルコポーロも通った絹の道であり現在はカラコラムハイウエイと呼ばれている。この道路は北京からカラチまで7,520キロメートルを結んでいて、1976年に全線開通した。開通までに十年を要した大工事であったという。

このカラコルムハイウエイをひたすら北上し、バットグラムと呼ばれる集落あたりまでは比較的平坦な道が続き周囲に広がる田畑は緑豊かである。ハイウエイとはいうものの、舗装が施されているというだけの道でところどころ穴があき、補修も完全には行われていないがたがた道である。往復一車線宛のこの道路は専ら自動車が走行しており自転車やモーターバイクは殆ど見かけられない。たまに農業用トラクターが走行していることもあるが一番多いのは満艦飾に飾ったトラックである。たまに山羊や羊の群れが悠然と道路を歩いていることもある。行き交うスズキと呼ばれるタクシーには鈴なりのものもあれば、スカーフを被って顔を隠した若い女性が幌の陰にひっそりと、相乗りしているものもある。スズキとはスズキの軽トラックのことであるが、この国では荷台に腰掛けを取り付けて幌を被せ、人員輸送のために転用されているタクシーを意味する。

二時間ほども北へ向かって走行し、バットグラムの集落を過ぎた頃から道路は次第に山道に入り、周囲は松の木がまばらに生えている山の風景に変わる。やがてインダス河と合流し、河岸を曲がりくねりながらも、どこまでも北へ遡及していくにつれ、道は険しくなっていくが、川沿いに河岸段丘が開けてきて、河の両岸に丹念に手入れされた棚田が現れる。ここはパターンと称される集落である。棚田には水が張られて光っているものもあれば、麦が実って黄色く光っている畑もある。田植えが終わって青々と繁っている水田もある。何枚もの小さな区画の段々畑が山腹を扇状に広がっていく景色は美しい。しかも青田ではスカーフを頭から被った女性が草取りをしていたり片方で水牛二頭に鋤を引かせた農夫が水田を耕していたりするかと思えば、他方では農夫が畑を鍬で耕していたりする。日本でも50年前には見られた長閑な田園風景が静かに息づいている。瀬戸内海の島々で一昔前に見られた段々畑以上にアジア的な高度集約農業の原風景が残っていた。この集落では手前の道路から河を隔てた対岸の道路までおよそ一kmほどの距離にワイヤーを張り、籠をぶら下げて人員輸送をしている。6人が定員の村営ロープウエイである。ロープウエイの下には河岸段丘の棚田が広がっている。

パターンの集落を過ぎると次第に周囲の様相が厳しいものに変わってくる。インダス河は断崖の遙か下を激しい勢いで流れており、周囲の切り立った山々には草木一本生えていない荒涼たる光景に変わる。しかも水の色は丁度セメントを水に溶かしたような灰色をしており、岩石に激突して泡立つ波の色さえ灰色である。更に通っている道路は岩盤を爆破して切り開いたもので、頭上の岩盤にはひび割れが生じていて、今にも巨石が落下してくるのではないかという恐怖にかられる。その上、道幅は狭く路肩が崩れている箇所さえあるので、対向車と行き違うときには思わず手足に力が入り、冷や汗が背筋をしたたり落ちる。

インダス河とは当地で使われているウルドウ語で「危険な河」という意味の通り、河の流れはとても速い。不思議なことに河が流れているにもかかわらず、河岸には緑が見当たらない。インダス河には魚さえも住んでいないというから不可解である。何故かと同行の人達と議論になったが、微粒子を含んだ水では魚も鰓に砂が溜まり呼吸ができなくなるからではないかという結論に達した。またこの河には危険で渡し舟も使えない。

このカラコルムハイウエイでは軍隊から派遣された兵隊が二人一組でブルトーザー1台を守って野営しているのを目撃した。崖崩れが生じたときには直ちに駆けつけて応急措置をとるためだという。ことほど左様に崖崩れの多い道路なのである。
たまに道路沿いに生えている街路樹は植樹されたもので、水の少ない場所に強いディヤァールという木である。

草木の全然生えていない荒涼とした山岳と遙か断崖の下を激しく流れるインダス河を窓外にみながら進んで行くと突如として、緑の段々畑が現れ立木も何本が立っていて、石組みと土で作った民家が畑を見守るロケーションでうずくまっている場所が現れる。砂漠でいうオアシスである。
緑地と荒蕪地を交互に眺めながら高度は次第に上がって行く。      
やがてパキスタンでは第二に高い山ナンガーバルパット8125mが見えてきだした。

 ところで、パキスタンで一番高い山はK2の8611mであるが、この山はエベレスト8848mに次いで世界第二の高峰である。パキスタンには8000m以上の山が57山もある。6000m以上8000m未満の山が105で、4000m以上6000m未満では600もありこの中には名前のついていないものがかなりあるという。まさに高山王国である。

チラスのホテルでは久しぶりに充分の睡眠を取り、朝8時半にはフンザへ向けて243kmの旅程を五時間で走破する予定で出発した。窓外に見える光景は昨日とあまり変わらない。

時に切り立った山間の谷を流れ落ちてくる雪解け水の流れは、色も澄んでいて白い泡をたてていた。この流れがインダス河に流れこむ箇所だけは色が青くなっているが、すぐに灰色に呑み込まれてしまうのである。また荒涼とした岩肌の山の中腹に鉢巻きを巻いたように緑色の帯が横に長く延びているのが見えることがある。これはパイプラインを敷設して送水している所だという。パイプから漏水して植物が育っているのである。このような景色を見ると水が如何に植物にとって大切なものであるかが如実に理解できる。

緑地と荒蕪地が交互に現れる光景を見やりながらフンザ目指して高度はますます上がって行く。

そのうちインダス河にギルギット川が合流する地点に到着した。ここはカラコルム山脈の山中を源流とするギルギット川とヒマラヤ山脈の山中を源流とするガンジス河が合流してガンジス河一本に合体する地点である。北に向って右側にはヒマラヤ山脈、中央にはカラコラム山脈、左側にはヒンドゥクシー山脈が三方向から競り合っている地点でもある。天気は晴朗で空は抜けるように青く、外気温は四十度近いが空気は乾燥していて汗をかかない。高度は1500m位であろうか。この地点で暫し休憩してから険しい道を走行するうちに木立が現れ、やがて小高い山に星と月とマルコポーロシープの絵模様が刻まれているのがみえるようになるとギルギットの集落である。ギルギットの町には小さな飛行場もあり山中の交通の要衝になっている。ギルギットの町中をしばし散策してから再び車中の人となりフンザへ向けて出発した。

途中ラカポシビューポイントで小休止した。この地点の海抜は千八百mであり、高さ7788mのラカポシ登山のペースキャンプが敷設される集落内にあるビューポイントである。実際のベースキャンプはこの場所より更に600mほど下った海抜1200m地点に敷設されるので、登山家にとっては実登山距離が世界一高い山になるということである。天気は快晴で美しい山の姿に暫く見とれていた。氷河らしきものも山の裾に遙に見えている。

 再び高度を上げながらバスはフンザへ向かって進んで行く。次第にポプラの木が多くなり杏の畑が山腹に開けた所がフンザ地方のカリマバードであった。既に高度は2500mになっている。宿泊したビューホテルはインダス河の岸に近い所であるが、屋上に上がって見渡せば四囲の山々を展望することができる絶好のロケーションである。今宵は桃源郷でどんな夢を見るであろうか。

カリマバードのホテルの屋上から四囲を眺めると北側にはお結び型のフンザピーク、細く尖ったレディスフィンガー、雪を被って尾根が波うつウルタル一とウルタル二。東に目を転じれば遙か遠くに、雪を被ったなだらかな姿を見せるパタレーピーク。南にはちょっとだけ顔を出したゴールデンピーク、デュラーレン、ビューティースリーブ。西には右下がりの尾根の見えるラカポシと目立つものだけ拾ってもこれだけある。このほかに名もない山々が群集しているのが眺望できる。南側の山々の麓は剥き出しの岩肌を見せ、切り立った断崖の下に広がる砂原にはインダス河が激しい水勢で流れている。そしてゆるやかなスロープになった段丘にはポプラの林や杏林と麦畑が広がっている。よく見ると灌漑用水路が四通八達しているのが判る。このような山岳地帯ではたゆみなく水の管理が丹念に行われているのである。人の営為があってこそ豊かな緑が維持できていることが判る。人々は坂道をとことこ歩いていて自転車やモーターバイクに乗る人はいない。今は緑一色であるが、杏の花の咲く頃はまさに桃源郷であるに違いない。

ホテルの洗面所で水を出してみて驚いた。灰色なのである。いくら放水してみても色はそのままである。備え付けのタオルは薄炭色に染まっている。これがフンザの普通の水である。現地の人達はこの水で顔を洗い、野菜や食器を洗い、洗濯をして生活しているのである。流石に飲み水だけはこの水を貯めて長時間かけて沈殿させ、上澄みを用いているようである。蛇口からふんだんに透明な水を何時でも利用できる日本人には想像を絶する体験であった。ここでは水とはこんなものだと思いこんでしまえば顔を洗い、洗濯するのも苦にならなくなるものである。肌はすべすべしてくるし潤いが感じられる。流石に飲料にはミネラルウオーターを使った。試しに上澄みを沸かした湯でお茶を飲んだり、持参したウイスキーを割って飲んでみたが腹を下すこともなく却って体調も良くなった。フンザが世界でも有数の長寿村である秘密は案外この水にあるのかもしれない。

翌朝、外が白みかけるのを待ってカリマバードの町中を小一時間散歩した。斜面を上へ上へと上がって行くと道の両脇に商店が立ち並んでいるバザールがあるが、早朝なのでどこも店が閉じられていて人通りもなく静かである。四囲の山々は時々刻々その色合いを変化させて美しい。雪山に朝の光が部分的に当たって輝いていたり、明るい所と陰の所がくっきりと対比されたりしているが日の出と共に次々と色合いが変わっていく。

やがて道路には働きに出掛ける人々がそこここに現れ車が迎えにくるのを待っている。 ちいさな集落なのでそれはちらほらといった感じである。多分道路工事の人夫として稼ぎに行くのであろう。幌をかけたトラックが賑やかにホーンを鳴らして近づいてくると器用に飛び乗っている。

通りがかりに顔を合わせた村人には誰彼となく「ハロー、グッドモーニング」と挨拶すると例外なくにこっと笑って「グッドモーニグサー、ハウアーユー」と返ってくる。年輩の人でもそうである。イギリス統治時代の影響なのであろうか。帰りに十三歳の少年と道々話しながら歩く機会を得た。彼は綺麗な英語を話す。私の話すブロークンの英語をよく聞いていてV音やTH音を正してくれたりした。彼の言ったことの中で英国人は傲岸で怒りっぽいのに対して日本人は紳士的で優しいから日本人のほうが好きだといった言葉が印象に残っている。

ホテルに帰ってからジープに分乗し、フーパー氷河の観察に出掛けた。狭く急な坂道をジープが曲がりくねりながら進んでいくと高度はどんどん上がるし、切り立った崖縁を通る時には冷や汗が背筋を伝う。やがてナガールの集落に到着した。ここでは杏畑と麦畑が広がっていて畑では女性達が草取りをしていたり流れで洗濯をしたりしている。鍬で田を耕している老人の姿も見受けられる。ここではゆったりと時間が流れている。傍らでは子供達が大勢屯して水遊びしたり走り廻っている。我々のジープが止まると子供達は物珍しそうに美しい瞳を輝かせながら集まってくる。田園風景と朴訥な人情が四囲の山々と調和して実に長閑で心安らぐものを覚える。

ここからはレディスフインガー、ウルタル、ゴールデンピーク、シャルダルピーク等の山々がカリマバードのホテルの屋上から見たのとは違った角度と大きさで眺めることが出来、山の姿の多様な美しさに感慨一入である。ナガールで美しい山の景色をカメラに収めてから、ジープはフーパービレッジに到着した。ここにはヒルトンという休憩所が設けられていて、飲み物のサービスが受けられるようになっている。縄張りの外には現地の大人や子供の物売り達が手彫りの石の像やガーネットや水晶、青石等を手にして待ち構えている。

暫し寛いだ後、見張らし台に登ると眼下にフーパー氷河が広がっている。氷河とはいうものの色は薄黒く、丁度都会地に積雪後、雪掻きをして道路脇に積み上げた雪山が溶けかけてアスファルトの粉塵と混じり合い薄汚れているのと同じような色をしている。このカラコルム山系の地質がしからしむるところなのか、灰色の勝った氷河である。

フーパー氷河の観光を終え再びカリマパードへ戻ってきて、山の中腹にあるバルティット城を見学に行った。

この城は760年程前に築かれたフンザ土侯の居城で1845年まではミールと称される土侯が住んでいたところである。土と石で外回りを固めた城の中の部屋はジェニパルという名の木材が用いられており、この地方の一般的な住居の造りになっている。明かりは天井の穴からとるようになっており、冬寒く夏暑い気候に対処できる工夫がなされている。

フンザはフンザ渓谷の北部一帯を領域とする地域のことで1974年まではフンザステートとして内政の一切がミールに任されていてパキスタン領内の自治国であった。従ってフンザの人々はミールに対しては今でも絶大な敬意を払っており、特別な存在と見做している。現に新しい立派な宮殿にはミールが生活していて村人の相談事にも気軽に応じているという。ミールの経営するロイヤルホテルはフンザ第一の高級ホテルである。

フンザの人々はイスラム教徒であるがイスマイリー派と呼ばれる独特の一派でモスクを持たず、言葉もブリシャンスキーという独特のものを使っており、この言葉は周囲から全く孤立している。このためフンザの人々はアレクサンダーの遠征軍の末裔であるという伝説がある。住んでいる人々もギルギット付近の人達とはどこか異なった風貌を備えているように見えるし、フンザ人はなによりも誇りが高い。

フンザ地域の属するカシミール地方はその帰属を巡ってインドとパキスタンの間で紛争の種となりやすいがそれは以下のような歴史的な事情が背景となっている。

つまりイギリスの保護領であったカシミールは、1947年にインドとパキスタンがイギリスから独立したとき、住民の大半がイスラム教徒であったのに土侯がヒンズー教徒であったが故に帰属をインドとしたことから紛争が始まり、インド・パキスタン間に戦争が起こって国連の調停で休戦となったのである。暫定の国境線が決められたままの状態が現在に至っているのである。

翌日は更にカラコルムハイウエイを北上し、パスー氷河とバトゥーラ氷河を見学に行った。氷河に近づくにつれフンザ川の両岸にそそり立つ山々には大昔に氷河が崩落した跡と見られる砂地の扇状斜面があちこちに見られ、堆積したモレーン(氷河が押し出した岩石や砂が堆積してできた山)がそちこちに築かれている。そしてその扇状の斜面の下部の砂原を直角に削りとるような形でフンザ川が貫流している。やがて左側の山間に氷河が流れ止まっているのを見ることができた。パスー氷河である。この氷河もフーパー氷河程ではないがかなり薄汚れた色をしている。

さらに北上してバトゥーラ氷河を見に行った。1905年に河口が現在位置にまで動いて氷河の長さは47kmに及ぶと言われているが、氷河の河口はモレーンになっており、素人目には岩石と砂の小高い山にしか見えずこの下に氷河が潜りこんでいるとはとても思えない。ただそうかもしれないと思わせるのはモレーンの麓に小さな池が二つほどできていて透明な碧色をしていることである。これが氷河湖である。微粒子で汚れた水も溜められて時間の経過とともに微粒子が沈殿して透明な色になっているのであろうと推測される。カラコラムハイウエイは丁度バトゥーラ氷河の河口のモレーンの裾野を通るように敷設されたのであろう。実際の氷河を見るためにはこの巨大なモレーンを乗り越えて険しい山を登っていかなければ見ることができないという。

帰りにグルミット村で一般家庭を訪問する機会に恵まれた。石組みと粘土で作られた塀の中はさらに迷路のような道が入り組んでおり、粘土と石組みで築かれた家の中へは小さな潜り戸を通って入る。入り口を入ると天井に明かり取りのある20畳敷程の広さの部屋があり、絨毯が敷いてある。部屋の真ん中には畳二枚分程の土間があり、冬には火を焚ける設計になっている。天井の明かり取りは煙突も兼ねているようである。台所兼用の居間の壁には皿が何枚も飾られていた。このような部屋が大小取り混ぜて一つの家が構成されているのである。たまたま家長の老人が病の身を押して出てきて伝統の楽器で一曲民族音楽を奏でて歓迎してくれた。パキスタン人は大家族主義で、祖父母、親子兄弟、孫までが夫婦ともども一つ屋根の下で生活しているという。現代の日本人にはとても考えられない生活がパキスタンの田舎では現実に営まれているのである。訪問した民家の隣の家は女系家族で妙齢の娘達が十人近くも塀の中から顔を覗かせて、我々一行を物珍しそうに眺めていた。恐らく大家族内の姉妹、伯叔母、姪という関係にある女性達だろうと思われる。

フンザの旅は大自然に没入し、身も心も洗われる思いのする至福の一時であった。

2009ウィーン・ザルツブルグの旅(総集編)(写真増補)...

2010/09/01 12:09:03

ウィーン ベルヴェデーレ庭園のライオン天使像  2009.10.12

2009ウィーン・ザルツブルグの旅10(写真増補版 72枚 2010.9.1)
    
この旅行記は公開後、日付毎に分割編集しました①~⑦
写真の枚数も全部で280枚に増補しましたのでたっぷりご覧になれます。興味ありましたら元画像に拡大して御覧になることをお勧めします。
細部まで見ることができます。拡大は無料です(笑)
 
2009年10月5~14日
年に一度の今年の海外旅行はクラシック音楽の中でも私がもっとも多くの好きな曲のあるモーツァルトが生まれ活躍したザルツブルグとベートーヴェンゆかりの地ハイリゲンシュタットがあるウィーンを訪れました。
ウィーンは5年前に中欧3国のツアーで一度立ち寄りましたが再度たずねたくなる魅力あふれる街で、今回はオ-ストリア1カ国に絞り、ハプスブルグ王朝の文化遺産と音楽と自然の美しさを堪能した旅でした。

10月5日(月)
出発便 成田発アエロフロート・ロシア航空SU582便 12:00発 エアバスA330-200
モスクワにてSU263便 エアバスA319に乗り換えウィーン着22:00 (時差7時間)
今回は直行便ではなくモスクワ経由としたのは運賃が約半額であるのと帰りにおみやげにマトリョーシカ(木製重ね人形)を買うためである。
インターネットで調べたアエロフロートの評判は芳しくなかったが、実際には機材は真新しい機体で、機内食も他のキャリヤーと変わらなかった。違いは日本人の乗務員がいないことぐらいであった。格安航空券ではなくペックス・スーパーバリュウというお買い得チケットで十分満足できた。

エアバスA330は240人乗りの中型機で座席は2-4-2列。ジャンボジェットよりもこじんまりして落ち着ける感じだった。
モスクワまでの隣席は大卒後専門学校の学生で、来年3月に卒業予定で友人と3人(一人は韓国人)でプラハに行くのだという。
機内食の最初の昼食は特に印象には残らないが、夕方に出た二度目(軽食)のラザニアはとてもおいしかった。
ちょうど10時間でモスクワのシェレメチェボ空港に到着。外は小雨で11℃とのこと。
着陸寸前に上空から見たモスクワの印象は緑が大変多い街であるということだ。

トランジットの保安チェックは、特に手荷物・身体チェックに手間取り、全員靴まで脱いだ。
それが済むと待合スペースで、みやげ物店、免税店、飲食店などかなり多くの店が連なるターミナル2の内部はネットの書き込みとは異なりかなりゆったりして椅子の数も十分だった。
出発まで2時間以上あるのでIrish Barでスモールラガーをたのんだら105ルーブルだった。(後で調べたら1ルーブルは約3円強)
ウィーン行きは14番ゲートで、近くの12番ゲートでは東京行きの搭乗が始まっていた。

2時間半ほどの飛行でウィーン空港に着き22:30発のリムジンバス約20分で中央駅まで行き、そこからタクシーで市庁舎裏のRange gasse(ランゲ通り)のHotel Zisperに到着。
三ツ星ホテルでバスタブ(浴槽)は無いが熱い湯が出たので温熱療法のようで気持ちよかった。水道水はアルプスの雪解け水が源なのでそのまま飲んで差し支えないと書いてあった通りで、カルキ臭もなくおいしかった。無事に到着して一安心。ホッ!

10月6日(火)
3時半に目が覚めてしまったが、二度目は目覚まし時計で6時半に起きた。食堂は地下にあり、ビュッフェ形式でかなり豊富な食べ物が用意されていた。ハム、ソーセージ、チーズ、ヨーグルト、各種ジュース、牛乳、ジャム類、シリアル、フルーツ類などと、保温容器に入った焼きベーコン、卵料理。
一日歩き回るので朝食をしっかり食べることは重要なので助かる。マダムがティーorカフェと聞いてテーブルまで運んでくれる。食後玄関を出て空を見上げると晴れていた。
フロントで最寄りの地下鉄駅Rathaus(市庁舎)を教えてもらった。市庁舎は中央にゴシック建築の尖塔のある巨大で豪華な建物で存在感に圧倒されてしまう。
その横を通ってフォルクス庭園(市民庭園)へ行くと花の時期を過ぎたバラ園の彼方に市庁舎の塔が朝日に輝いていた。公園では遠足に来ていた小学生たちに出会った。

続いてホーフブルグ(王宮)のシシー博物館と皇室の居室、宮廷銀器コレクションなどを見学した。最後にここに住んだ皇帝フランツ・ヨーゼフ皇帝夫妻の居室やエリザベート皇紀の生涯、膨大の数の銀食器や陶磁器、金メッキのダイニングセットなどハプスブルグ家の栄華を偲ぶことが出来る。シニア割引のある入場料には日本語のオーディオガイドも含まれているのでたっぷり見ることが出来たが、ガイドツアーのグループも多く、追い越して進まないといつ終わるかわからないようだった。

見学の後、地下鉄Nestroyplatz駅近くのミキ・トラベルに行って明日の「ウィーンの森半日観光」(E58)(Eはユーロ)と12日の楽友協会ホールでのモーツァルトコンサートのチケット(E54)を購入した。

シュテファン広場Stephanplatzへ戻りグラーベン通りのオープンカフェでシュリンプサラダとビールの昼食。足取りが重くなったがシュテファン寺院裏のモーツァルトハウス・ウィーンに行くことにした。モーツァルトはウィーンに11年間住んだが9回も引っ越したといわれ、ここが唯一現存する家だ。
アパートメントの1~3階を占める10以上の部屋があり、ビリヤード台のあった12畳ぐらいの広い部屋もあって経済的に余裕のある時期を過ごしたのであろう。賭け事も好きで借金に苦労した時期もあったそうだ。ここでもオーディオガイドが役立った。「フィガロの結婚」はこの家で書かれた。

午前中は雲が多かったが午後は快晴となり陽射しが強く、暑くてコートは着ていられない。写真はコントラストが強すぎて具合がよくない。シュテファン寺院の中に入ってベンチで休憩しながら日記を書いている。

ケルントナー通りをそぞろ歩きながら路地奥の郵便局で絵葉書用の切手を買った。郵便局は文具なども販売しているコンビニもかねているよううだ。看板もポストも黄色がシンボルカラーらしい。帰りがけに明日の午後の集合場所ALBERTINA美術館を確認に行くと客待ちの観光馬車フィアカーが何台もとまっていた。

ホテルに戻って一休みし、着替えてから帰りにホテルの近くに見つけたAdam’sというビァレストランへ出かけ、ターフェルシュピッツというウィーンの名物料理をたのんだ。
コンソメスープで茹でた牛肉の薄切りに擦り下ろしたホースラディッシュ(西洋わさび)と付け合せに細切りポテトのソテーが付く。さっぱりした味でビールにもよく合う。
今回は歩数計を携帯することにした。本日の歩数:19010歩

10月7日(水)
夜中の雨音が激しかったので心配したが朝は見事に晴れていた。市庁舎方向に向かって昨日より一本南側の道から国会議事堂の脇に出た。さすがかつてのオーストリア帝国の議事堂だけあり立派で、民主主義発祥のギリシャの建築様式を取り入れているのだそうだ。

リンクRingと呼ばれる環状大通りを少し行くと、内側の王宮庭園には白い大理石の大きなモーツァルト像が建っており、前の芝生には赤いベゴニアで描かれたト音記号が美しい。

外側にはマリアテレジア広場を挟んで自然史博物館と美術史美術館が同じ形の美しい姿を並べている。今回は美術史美術館のみに入った。内部の中央階段や天井画、大理石の床の模様なども豪華なものだ。たくさんの絵画の中ではブリューゲルの「雪中の狩人」「農民の婚礼」「バベルの塔」、ヴェラスケスのスペイン王女マルガリータ・テレサの肖像連作などがよく知られている。2階ホールのゴージャスなカフェ・ゲルストナーCafé Gerstnerにてコーヒーで一休みし、隣席の人と写真を撮りあった。

午後のウィーンの森半日観光の出発はアルベルティーナ美術館前からで、女性ガイドの館野さんと参加者7名が9人乗りのワンボックスカーで出かけた。ウィーンの森南コースは市内から小1時間で着き、最初に寄ったのはリヒテンシュタイン城で外観の見学のみ。

次は石材採掘跡の地底湖SEEGROTTEで、地下20米ぐらいで6千平米もあり透明度の高い神秘的な湖だ。暗闇の湖をボートで一周した。気温は9℃一定で湿度は97%もあるそうだ。ここにはナチスの戦闘機部品工場跡が残されている。

カフェタイムの後、シューベルトが「冬の旅」の「菩提樹」の曲を書いた宿の跡のホテルに寄り2代目の菩提樹と泉(手漕ぎの井戸)を見学した。最後は女子修道院マイヤーリングを見学して6時少し前に市内へ戻った。

ウィーンの森の想像したイメージはもっと木々が生い茂った深い森であったが、実際は箱根や軽井沢に近い印象だった。
夕食には早すぎたので王宮沿いにぶらぶら歩きヘラクレス像が4体も構えるミヒャエル門にさしかかった。ここも名所らしく観光のグループがいくつも見られた。

そこからグラーベン大通りの途中にブランドショップが並んだコールマルクト通りがあり、ショーウィンドウの写真が一番きれいに撮れるたそがれ時を迎えていた。

夕食はオペラ座近くの天満屋にしようと思っていたが少し遠いので近くにあったシーフード店NORDSEEに入って白身魚のグリルにマッシュルームソース、ポテト、白ワイン1/4ℓ。
E16.25の内ソービニオンブランのワインがE7で魚より高かったがベストチョイスだった。

食後はグラーベン通りやアンティーク通りなどをそぞろ歩き、ショーウィンドウやにぎやかなレストランのテラス席を写したりしながらシュテファン広場に行ってみると、大勢の人だかりの中で若者たちが片手倒立などのマッスル大道芸に興じていた。
本日の歩数:19146歩

10月8日(木)
午前中にザルツブルグに着きたいので6時前に起きた。朝食に行ったらまだ一組しかいなかった。7時にチェックアウトして地下鉄駅Rathausに向かう途中、正面から昇ったばかりの朝日がまぶしかった。途中Volkstheaterで乗り換え7時半にはウィーン西駅に着いた。
切符売り場を探しザルツブルグ行き2等片道を買った。(E47.5  317Km)

列車は6番ホーム8:20発ザルツブルグ経由ミュンヘン行きで暗赤色の機関車が牽引する。ECONOMY KLASSと書かれた2等車両はFIRSTより少なく混んでいた。隣席は日本人でフルートを持った女の子を連れた知り合いらしい男性で、レッスンの合間に今日はザルツブルグへの日帰り観光とのこと。

ハイスピード列車という車内放送があったがモニター表示では200Kmまでだった。
ザルツブルグへ近づくにつれて山と牧草地が混在するアルプスのような風景が多くなってきた。11時少し過ぎに到着した。西口駅前はバスの発着所や低層のオフィスビルが多い商業地域で観光地の雰囲気はまったくない。
ネットで予約したホテルLasserhofは駅の南側の線路をくぐった東口側にあり、歩いて行ける距離で外観からすぐにわかった。昼前でチェックインは出来ないので荷物を預け、市内観光地図を貰って新市街の中心にあるミラベル広場向かった。
そこのパノラマツアーの案内所で湖水地方のザルツカンマーグートSALZKAMMERGUTをめぐるツアーを申し込んだ。(E50)今日はまずまずの天気だが明日から悪くなるとの予報なので予定を早めて今日の午後行くことにした。

ミラベル広場では大規模なマーケットが開かれており、野菜、果物、パン屋、肉類、チーズ、お花、リース飾り、雑貨などを商う店やその場で食べられる料理を出す店などで中心にある教会の周りが埋め尽くされていた。
そこでグヤーシュというハンガリー料理が元でパプリカ味の肉、野菜たっぷりのスープを昼食にした。
マーケットは秋の味覚にあふれており、めずらしいキノコ類やカボチャ、動物の人形など見飽きることがない。客と売り手のやり取りも活気があって写真の好材料だ。

2時出発のツアーは「サウンドオブミュージックツアー」といい、物語に登場する土地や教会などを訪ねるもので参加者10人が大型バスで出かけた。ガイドはこちらに13年住んでいる高森さんという男性で、「ザルツブログ」を書いているとのこと。

フシュル城、サンクト・ギルヘン、湖上遊覧、サンクト・ヴォルフガング、モントゼーなどをめぐる4時間のツアーでは映画の場面と関連付けて説明してくれたが、私は見ていないのでなんとも。でも湖上から眺める景色はすばらしく、緑の牧草地、花に飾られた家々、教会、ホテルなど、絵のような、という表現がふさわしい。
サンクト・ギルゲンのモーツァルトハウスの前ではモーツァルト像の前にたむろする少年たちに撮ってくれよとせがまれた。モーツァルトの母と姉が住んでいた家が今は役場Rathausになっている。

6時近くにミラベル広場へ戻った。今日の明るい曇り空は写真撮影には最適だった。
ザルツブルグSALZBURGはその名の通り塩で栄えた都市なので、みやげに岩塩を買った。

夕食はホテル近くのビァレストランPitter Kellerへ入った。オーストリアではドイツの影響が大きいためかワインよりビールが多く飲まれるらしくビァレストランはよく見かける。小グラスビールに1/2フライドチキンとポテトサラダでE13.80 レモンが半個ついておりさっぱりとした味で、酸味が少々強いポテトサラダとともにこれがオーストリアの味か、と思いながら食べた。本日の歩数:18696歩

10月9日(金)
3日間かなり歩いたので今朝はゆっくりすることにした。でも昨夜は9時過ぎには寝てしまったので7時にセットした目覚ましは必要なかった。
7時半に食堂へ行っても早いせいかまだ客は少なかった。ビュッフェスタイルの朝食はウィーンと同じほどの品々が揃っており十分満足できた。特に果実の絵が描かれた容器に入った6種類のジャムは気に入った。

初めて絵葉書を書いた。切手はウィーンで買っておいたので出かけるときにポストを探しミラベル公園近くで投函した。ホテルの出がけにフロントで乗り物や名所の入場が出来るザルツブルグカード48hr E32を買った。大変便利でお得なカードだった。

ミラベル公園の庭では赤いベゴニアで描かれたあざやかな模様が印象的で、遠くにお城を望む構図はガイドブックの「るるぶ ウィーン・・」の表紙そのものだ。

公園を出てすぐ近くのマルカスト広場に面したモーツァルトハウスを見学した。ここは二度目に住んだ家で、オーディオガイドで曲の演奏も聴けてすごくよかった。聴いたことのない多くの作品が紹介されて、あらためてモーツァルト好きが高じてしまった。

次にバスも通る大きな橋(ザルツァッハ川に架かるシュターツ橋)を渡り旧市街へ向かった。市街へ入ったとたん、狭い道の両側にびっしり立ち並んだ家並みは5,6階建てぐらいで、想像していたのとは大きく異なり見渡しが効かない迷路のようだった。

モーツァルト広場を横切り、歴代大司教の宮殿であるレジデンツを外から、大聖堂のドームには中へは入って見学した。数々の絵がちり嵌められた天蓋は実に見ごたえがあり、立派なパイプオルガンは見るだけではもったいない。このオルガンはヨーロッパでも最大規模でモーツァルトも1779年から奏者を務めたそうだ。

レジデンツ広場から南に見える小高い山の上にあるホーエンザルツブルグ城へ行くことにした。まずケーブルカーで登り、城塞の外周に着くと、そこからザルツブルグ市全体が見渡せる絶景に出会うことが出来る。
城のミュージアムでは築城の様子や武器の類、城での生活の様子、楽器などいろいろあって書ききれないが、いずれも面白かった。城の中庭で会った花嫁さんやお茶目な男の子など写真を撮らせてもらった。

見学途中で昼食代わりに持ち合わせのスナック菓子しか食べていなかったので、城を下りてガイドブックで探した有名なカフェ・トマッセリCafé Tomaselliへ入った。コーヒーをと言っていろいろ種類があって迷っているとウェイターが行ってしまい、再度来たときにブラックティー(紅茶)を注文するとChanged your mind?と怪訝な顔をするから、そーだよ、コーヒーは選ぶのが難しいからと笑いながら言ってやった。
有名なケーキはウェイトレスがトレイに載せてきたのを選び会計も別々だった。いくつもの層の間にフルーツが入った食べ応えがありおいしいケーキだった。

一息入れたので旧市街の中心部にあるモーツァルトの生家Mozarts Geburtshausへ行ってみた。外観の黄色い壁はよく手入れされた感じで、内部には幼いころのヴァイオリンや鍵盤楽器、楽譜、肖像画、書簡などが多数展示されている。

街一番の繁華街のゲトライデ小路Getreidegasseには店のシンボルを表現した鉄細工の看板がたくさんあり、絵になる風景だ。写真の題材として格好の被写体である。

5時を過ぎてこの後どうしようかと考えながらぶらついていると、同じ場所を堂々巡りしてしまい我ながらいやになってしまった。昨日のガイドが推奨していたザッハーホテルHotel Sacher Salzburgのレストランに行くことにした。
Salzach Grillでウィンナーシュニツェルと赤ワイン。薄い牛肉のパン粉をつけたカツではなく天ぷらのような衣をつけて揚げたもので、色はキツネ色ですごくおいしかった。支払いのとき請求書が挟まれた折片紙に店名、メニュー、日付などを書いてサインしてもらった。

ホテルにはピアノバーがあると書いてあったので行ってみた。そこでゆっくりとピアノを聴きながらバランタインのロック。宿泊のホテルは一泊E59の三ツ星だがザッハーホテルでの食事やバーの雰囲気はなんと贅沢な気分になれるのだろう。(食事とバー合わせてE55)

隣の席の子連れの夫婦が「どこの国から来たの?」と声をかけてくれたので話が始まり、彼らは奥さんがドイツ人で旦那はユーゴスラビア人。12,3歳のはにかみ娘だった。
トイレから戻ってくるとピアノ演奏がまた始まっており2杯目のスコッチを注文した。

今夜はまさに至福のとき。音楽好きの連れがいればとの願望は贅沢すぎるというもの。
歩いて帰るころにはしっとりと小雨が降り始めていた。楽しい一日を無事にホテルに戻れて感謝〃〃 。これだから一人旅はやめられない。 本日の歩数:13905歩

10月10日(土)
夜間に少しではあるが降っていたので天気が気になったが朝にはやんでいた。旧市街の主要なところは昨日見て回ったのであまり急ぐ必要もなく、ゆっくり朝食をとった。

今日はバスに乗ってみることにして、フロントで地図にあるバス停の○印とバスの進行方向を確かめた。ザルツブルグ議会の前で乗り、橋を渡ってモーツァルト広場で降りた。

まだ10時前なので観光客は少なく、とりあえず広場に面したインフォメーションiで明日の列車の時刻表をもらい、すぐ前のザルツブルグミュージアムを見学した。古代遺跡の発掘品や音楽関係の展示、地下の絵画などを見たがあまり印象は強くなかった。
その後セントピーター寺院の教会コンサートのチケットを買いに行ったが、寺院では売っておらず結局i内のチケットサービスで手に入れた。(E18)

モーツァルト広場では高校生のバンドの演奏が始まり大勢の見物客が取り囲んで聴き入った。広場近くのMOZARTというカフェでツナ入りのスパゲティーを食べたが塩味がかなりきつかった。このころから薄日がさしてきた。コップの水がご馳走だった。

旧市街を東に向かい祝祭劇場東端のカラヤン広場前から22番バスで郊外まで行ってみた。住宅街からすぐに田園地帯に出てしまい町が大きくないのがわかった。25分ぐらい西に走ると遠くに城塞がよく見えた。終点でしばらく停車したあと元の停留所Karajan-Platzまで戻り、マカルト小橋たもとにある遊覧船の発着所に行き16時発のチケットを買った。

乗船まで1時間以上あるのでいったんホテルへ戻る途中、橋の上でカモメにパンを投げ与えキャッチするところを写して遊んだ。実に上手に捕るものだと感心した。

ミラベル公園横のフュルストFurstでおみやげのモーツァルト・クーゲル(球形のチョコレート菓子)を買った。ザルツブルグでしか買えないと8日のガイドに言われていた。

16時に曇り空の下で出発した遊覧船は満席だった。350馬力のエンジン搭載とアナウンスしていたが、スクリューではなくジェット噴流で推進力を得る形式のためと後方デッキにいたのでやけに音がうるさかった。船上からも城塞がよく見え、やはりザルツブルグのシンボルなのだと感じた。

7時からのセントピーター寺院でのモーツァルトコンサートは半地下にあるロマネスクホールというそれ程大きくないホールなので身近で聴けて大変よかった。50人ほどの聴衆は私を含め殆どが年配の人で「年金コンサート」のようだった。ピアニストはナターシャ・ルバネンコというロシア人で曲目はソナタKV570とKV331の2曲。後の曲は最終楽章が「トルコ行進曲」として有名な曲だ。   本日の歩数:16638歩

10月11日(日)
明け方音を立てて雨が降っていたので今日は一日だめかという気がして少々気が重い。
でも8:08の列車でウィーンに戻るのでしっかりと朝食を食べて支度をした。

7時半にチェックアウトして外に出てみると小雨。傘を広げてキャスターケースを押しながら駅に向かった。切符売り場は臨時のプレファブの建物内でそこには大きなロッカールームがあった。出発は「8:08ウィーン西駅 4番線」の表示で確認した。

車内はガラガラでテーブルのある4人席を最初一人で使った。車内で大いびきをかいて寝ている人がいて、周りの人と顔を見合わせてクスクス笑ってしまった。
座席のあちこちに赤いパンフレットが置いてあるので中を見ると、この列車の終点までの停車駅と時刻、駅ごとの接続列車の時刻などが詳細に記載された時刻表で、終点のウィーン西駅からの空港バスの時刻まで載っている。なんと親切で実用的なのかと感心した。

9時半にリンツ(オーストリアで人口が第二の都市)に着くと一人でいた席に3人家族が着いた。ウィーン大学の学生であるという娘と父親の写真を撮らせてと頼んだら、娘は「オーストリアのファミリーとして撮って」と言うのに父親は照れて目を閉じてしまった。

撮れたのはほのぼのとしたファミリー写真だ。置き場に困った父親の右手が・・・。
列車は定刻に着き、ウィーン西駅からホテルのあるPilgramgasseまでは地下鉄で4駅と近い。駅の目の前が今日の4つ星ホテルANANAS。昼前であったがすぐにチェックインできた。豪華さはないが部屋の広さもゆったりとして十分。なによりバスタブがあるのが気に入った。一週間湯舟につかっていないのでゆったり入って疲れを取りたいと思っていた。

ウィーンに着いたときには雨はすっかり上がり薄日が差していたので、一休みしてから本日の目的地のベートーヴェンゆかりの地ハイリゲンシュタットへ向けて出発した。市の中心から5Kmほど北にありベートーヴェンハウスと小川に沿ったベートーヴェンの散歩道がある。
ガイドブックの地図を見ながらベートーヴェンハウスを探した。地元の婦人にたずねると親切に教えてくれた。十字路にある教会が目印で、ベートーヴェンの夏の家(外観のみ)と難聴に苦しみ兄弟宛の遺書を書いた「ハイリゲンシュタットの遺書の家」を見学した。こじんまりした家でザルツブルグやウィーンのモーツァルトハウスと比べると質素な感じだった。でもデスマスクや遺髪などを見ると真に迫るものがある。

そのあと落ち葉を踏みしめながら英雄通りEroicagasseを通って「田園」の曲を構想したといわれるベートーヴェンの散歩道Beethovengangを歩いた。水の流れは幅50cmぐらいでほんとうに小川だ。周辺は秋の落葉で彩られて、のどかだがちょっとうら寂しさが漂っている。新緑のころはまた異なっているのだろう。交響曲第6番「田園」は多分春から初夏にかけて書かれたものだろうかと考えた。小鳥のさえずりや雷など生き生きした感じがするので。

西のほうへ更に行くと上り坂となり、小高くなった丘陵地帯にブドウ畑が広がっていた。
住宅街に戻るとさまざまな色合いの美しい家が並んでおり、ウィーンの住宅建築の展示場を見ているようで、しかも自然とよく調和している。

ヤリスYaris(トヨタヴィッツの欧州生産車)の手入れをしている女性がいたので、ヤリスですねと声をかけると、「この車5年前に買ったけれどすごく気に入っているのよ」と笑顔で答えていた。ワイパーに積もった黄葉が季節感をかもし出していてよかった。

だいぶ歩いて疲れたので、車が通れない小道を通って市電の終点グリンツィングGrinzingまで歩き、駅前のカフェPUCCO’Sに入って紅茶とケーキで一休みした。
帰りは市電38番に乗ってKarlsplatzまで戻り夕暮れ時のオペラ座や周辺の景色を写した。

夕食は初めて日本食をと思って天満屋へ行った。てんぷらメニュー(刺身、ひじきの煮つけ、たっぷりのてんぷら、ご飯に味噌汁)とキリン生ビール、グラス白ワイン(E40)
8時ごろホテルに戻り、フロントで変圧器を借りた。携帯に充電しないとメール写真が写せなくて困っていたところだった。四ツ星ホテルのありがたさだ。本日の歩数:18136歩

10月12日(月)
ウィーン最後の日は雨で始まった。テレビの気象予報では曇りで気温は12℃。小雨の中をベルヴェデーレ宮殿美術館のクリムトの絵を目当てに出かけた。最寄の駅から10分もあるが仕方がない。
途中で同じ宮殿に向かうオーストラリアから来た老夫婦と一緒になった。It’s a long wayと同じように感じていたようだ。宮殿は左右対称の立派なもので、緑青色の屋根が美しい。展示は3フロアあり、目当てのクリムトは2階で、有名な「接吻」以外にも風景画なども含め多くの作品があった。
「接吻」は1908年作で国立美術館に即買い上げられたそうだ。日本語のオーディオガイド付きなので他のオーストリアにかかわりの深い画家や宗教画などもある程度理解できた。

北側には広々とした庭園があり、ベージュと茶の二色の砕石と芝生や植木で描かれた美しい模様がどっしりとした石造りの宮殿を優美に見せている。芝生を嘴でほじくり返すカラスは小柄だが悪質に見えた。庭園北側にあるバロック美術館は素通りしてベージュと茶の2色の壁が美しい楽友協会の横を通って繁華街へ出た。途中グランドホテルの中をのぞいたら地下に野菜、果物、肉、パンなど豊富に並べたデパ地下ならぬホテ地下が見えた。

昼食は天満屋となりのMAMA’S KITCHENというウィーン料理の店に入った。見て、中身を聞いてたのんだのは、パンと卵などを混ぜた大きなパン団子(クヌ-デル)をスープで茹でたものを、肉と野菜の煮込みと一緒に食べるもの。
一緒に食べると塩味がちょうどよい。煮込みは酸味が効いてシチューとは違った味だ。食後はケルントナー通りをぶらつきながらおみやげのモーツァルト・チョコレートや民芸品などを買った。

夜のコンサートに備えてひとまずホテルへ戻り、ほかに客のいない一階のカフェで紅茶を飲みながら日記を書いている。ガラス天井からのやわらかい光が気分をほぐしてくれる。

楽友協会はKarlsplatz駅からすぐで7時半にはついた。ロビー横のクロークにコートを預け、バウチャーと引き換えにチケットを受け取った。ミキトラベルへ行って購入したのはE54の席だが、受け取ったのはE79の前から6列目のよい席だった。
本日のプログラムをE5で購入。7:40にブザーが鳴って入場開始。この楽友協会大ホールは毎年ニューイヤーコンサートが行われ超有名なだけあって、開始前の記念撮影で舞台の前は混雑した。

ウィーンモーツァルトオーケストラによる演奏のプログラムは前半が交響曲35番、94番、ドンジョバンニ、フルートとハープのための協奏曲など、後半はフィガロの結婚、アイネクライネ・・・など。いろいろな種類の音楽が聴けてすごくよかった。オペラなどふだん聴く機会は無いので。アンコールも大サービスで、フィナーレは新年と同じラデツキー行進曲で聴衆も手拍子で歓喜に酔いしれた。

ホテルに戻ってから1階のバーでワインを飲んだ。旅行の最後の夜のすばらしいコンサートの後なので、ほっとした安堵感と疲れが入り混じり、いい気分でこの旅行を思い返した。
本日の歩数:約16000歩(13日空港で20826歩)

10月13日(火)
昨日の天気とはうって変わり朝から快晴だった。テレビの気象番組によると朝6時の気温は6℃で日中の最高気温が8℃とのこと。8時にはすべての帰り支度が整い空港に向かうには1時間早すぎるのでホテルの近辺に出かけてみた。
外は風がすごく強く、すぐにコートの襟を立てた。日が昇って間もないので、通りの一部や高い建物の上部だけがまぶしいほどの陽を浴びて輝いている。すぐ近くの教会の白い塔が真っ青な空にそびえていた。

このあたりでは通勤や通学、買い物などごく普通の生活が見られ、繁華街とはまったく異なる雰囲気が興味深い。交差点の近くにCAFE KONDITOREIというカフェがあったので朝食に入った。
(ANANASの朝食はオプション)メニュー看板でEgg Breakfastを注文すると、オレンジジュースのあとしばらくして出来立てのゆで卵、あたたかいパン、クリームでハートの模様を描いたウィンナコーヒーが運ばれてきた。
年配のマエストロはカフェ店主らしく気の利いたサービスをしてくれた。ホテルのビュッフェ朝食ではこういうことはない。ホテルの裏側へ回ると地下鉄駅PILGRAM GASSEの昔ながらの年代を感じさせる立派な出入り口があり、朝の通勤客が急いでいた。
9時過ぎにチェックアウトを済ませ、中央駅からは9:40発の空港ライナー16分で着いた。

帰国便 ウィーン発アエロフロート・ロシア航空SU262便 12:00発 エアバスA319  モスクワにてSU575便 エアバスA330に乗り換えモスクワ19:20発 成田着10:00
モスクワではお目当てのマトリョーシカ(木製重ね人形)を7体重ねと5体重ねの2個買った。
モスクワを出発するとき時差を1時間間違えて危うい思いをした。乗り継ぎ便での一人旅ではくれぐれも注意が必要だと思った。成田到着は予定より少し早く9:23に無事着陸した。

◇ 今回の旅行記はこれで終わります。ウィーンとザルツブルグの二都市での連泊のため移動の疲れは少ない代わり歩いた距離は約80Km(13万歩)に達しました。

◇ 天候はおおむね良好で傘をさして観光することはありませんでした。気温は6日午後の28℃から13日朝の6℃まで変化は大きかったですが湿度は低いので不快なことはありませんでした。晴れたのは3日間だけで、あとは曇りや薄日が差す天気で、写真撮影にはコントラストが強すぎずかえってよかったと思いました。

◇ この旅行記は撮影した写真の解説書も意図していますので駅や通りや店の名称など原語も併記したところがあります。
◇写真機材  カメラCANON EOS40D EF-S 17-85 IS USM
       Nikon COOL-PIX 5400(楽友協会ホールの写真) 
◇費用精算  航空券(諸税、手数料含む)    \75410
       ホテル(3箇所 8泊)      \76380
       交通費(ザルツブルグ往復含む)   \25270
       オプショナル半日ツアー、コンサート各2回   \24120
       入場料、食事、カフェ、バー    \43310
       おみやげ             \27250 
       モスクワでのおみやげ、飲食    \20290
       合計               292030円 
    為替レート  1E=134円  1ルーブル=3.1円

写真は元画像に拡大して御覧ください。  次の画像へ>>
日付毎に編集した①~⑦の写真総数は280枚あります。

編集・公開 2010.5  yamada423
写真増補改訂 2010.9.1(72枚)

アパルトヘイトを廃して逆差別の始まった国・...

2010/09/01 08:09:37

「移民襲撃」「スト」… 南ア、W杯の陶酔去り混乱の現実再び(2010.9.1 01:15)
http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/100901/mds1009010117000-n1.htm



平成13年12月8日(土)
 成田空港で最初の顔合わせである。集まった顔ぶれは合計7人でその内訳は初老の夫婦一組と初老の単身女性2人、若い単身女性1人、初老の単身男性1人である。今回はこの単身の男性と同室になるのだろうと予測し、それとなく人と為りを観察するが旅慣れている人のようで預ける荷物もなく機内持ち込み分だけで身軽な人である。多分うまくやっていけるであろうとほっとする。


 免税店では1l入りのオールドパーを一本仕入れた。同室の相手が左党であれば、足りないかもしれないが、彼は彼なりに持ち込むことだろう。一人で飲むには多すぎる程であるが、足りなくなって貰い酒するのもみっともない。つまみには鱈のすり身を鯣状に加工したものとおかきが託送荷物の中に入っているから十分であろう。


 飛行機は16時20分に始動して4時間半後には雨の降っている香港空港へ到着した。香港空港は二回目の利用である。前回きた時はもうかれこれ20年も昔であろうか。啓徳空港で山と高層ビルの合間をかいくぐって着陸するパイロット泣かせの狭い空港であったと記憶するが、今回は海に拡張したとても広い大きな空港であることが一目見ただけでも判る。英国から中国に返還されてから二年を過ぎようとしているから、それなりに発展しているのであろう。

 香港空港を現地時間24時10分に始動した飛行機は一路ヨハネスブルグへ向かって飛び立った。時差は香港とヨハネスブルグ間で七時間である。実飛行時間は12時間25分であった。暫し持参した雑誌を読んでから専ら寝ることに努めた。


平成13年12月9日(日)
 朝7時にヨハネスブルグ空港に到着した。佐原さんという大柄な若い女性ガイドが出迎えてくれた。台湾出身の女性で日本語がうまい。「どうぞよろしくお願い致します」という一言がフレーズの語尾に必ずつくのが耳に残った。肝っ玉母さんという感じのする信頼感を寄せ得る女性である。


 このあたりの標高は1400メートル程あるらしく、三〇度Cを越える温度で暑いことは暑いのであるが空気が乾燥していて体感温度はそれほど高く感じない。


 最初バスでプレトリアへ向かった。アフリカだから砂漠が多いのだろうという予想に反して車窓の外に広がる風景は緑が多く建物もまばらで意外な感じである。先入観が災いしたともいえる。要は自分の目でしっかりと観察することである。

 プレトリアは行政府のある首都で標高1370メートルの盆地である。ヨハネスブルグの北方60kmに位置し計画的に作られた街は碁盤の目のように整然と区画され美しい町並みが続いている。一人当たりの公園の面積はアフリカ一を誇り、折りから咲き残ったジャカランタの花もちらほらと紫色の装いで街並に風情を添えている。


 プレトリアは別名「ジャカランタシティー」と呼ばれジャカランタの並木道がいたるところにみられる。


 因みに南アフリカは三権を司る機関が三つの首都に分散されている珍しい国である。 立法府はケープタウン市にあり司法府はブロムフォント市にある。この国の建国に伴う複雑な事情のあることが窺える。


 開拓者記念館を最初に訪問した。プレトリアの郊外の丘の上に建つ高さ41mの立方体の建物は、19世紀の中頃に南のケープタウン方面から大移動してきたボーア人(オランダ系の白人で農民という意味)開拓者の歴史と偉業を讃えるため、グレートトレック(大移動)100周年を記念して1937年から12年かけて建てられたボーア人の聖域である。記念館の四隅には四人の大きな大理石製の肖像が飾られている。その名はHendrik Potgieter,Andries Pietorius,Piet,Retief である。


ボーア人は現在では白人間の混血が進んでアフリカーナと呼称されている。彼らは何れもヨーロッパを本貫の地とする人々であるが、アフリカーナというオランダ語を母体とする言語を使用している。


 開拓者記念館の入り口には幌馬車が一台置いてあり、建物を取り巻く外壁には幌馬車が彫刻されている。この幌馬車は荷物を運搬することの他に別の大きな機能を担っていた。移動中に襲撃してくる土着人と戦う時に並べて弓矢からの防護壁として使用されたのである。従って幌は布製ではなくて鉄板で作られている。
     

 記念館の中には開拓時代のボーア人の生活の様子や移動中に現地人から襲われて防戦する様子等が絵画として年代順に展示されていてズール族との戦闘場面等はなかなかの迫力である。当時の生活用具等も展示されていて興味が尽きない。

 次にポール・クルーガーの居宅を見学した。居宅の道路を挟んだ向かい側にはクルーガー教会が建っており、教会の名前は彼に因んでつけられたという。トランスバール共和国の第三代大統領で最後の大統領であった彼の居宅は意外に質素で慎ましやかなものであった。門前に横たわる二頭のライオン像は彼の象徴だということだが印象に残る像であった。

 この後、近くのジャカランタ並木道で殆ど散ってしまったが,ただ一本だけ残って満開の花を咲き誇っているジャカランタの木をカメラに収めてからヨハネスブルグ市内中心街へ向かった。チャーチ・スケアを徐行して中心街の佇まいを巡回しながら車窓観察し、ユニオンビルをカメラに収める時だけ下車して後は通り抜け、ヨハネスブルグ中心街の観光を終えた。この間バスから降りることを許されなかった。これは最近ヨハネスブルグ中心街の治安が悪化しているため観光客が歩いていると襲撃されるケースが多いからだという。  

 世界に悪名高かったアパルトヘイト政策が廃止され、黒人政権になってからとみにヨハネスブルグの治安が悪化したのだという。僻地や田舎に住んでいた黒人達が今まで立ち入ることを禁止されていた憧れの都市の中心部へいけば成功のチャンスがあるだろうと考えどっと流入したせいらしい。ところが現実は厳しく、新政権のもとでの経済政策は行き詰まりで失業率は高まる一方なので失業者が生活に困窮してひったくり等の犯罪行為に及ぶせいである。


失業率はどれぐらいかとの質問にガイドは人口調査自体正確な数字のない国だからまだ失業率の正確な統計はとられていないとの回答であったが、50%を上回っているのではないかと言っていた。


 黄色人種に属するガイド嬢は「現在南アフリカでは黒人によって白色人種や黄色人種に対する逆差別が行われている」と嘆いていた。彼女の挙げた一例は銀行からの借入金に対する利率にもみられるという。即ち中国人に対する利率23%、白人に対して15%、黒人に対して2 %であり、銀行に対して不公平ではないかと抗議すると「有色人種はお金持ちだからいいではないか」という答えがかえってきたと嘆いていた。激動する社会の変革期の悩みを今南アフリカの人々は体験しているのである。


 次にレセディ文化村を見学した。ヨハネスブルグから1時間弱のところにあるこのテーマパークにはズール族、コサ族、ペディ族、ソト族の四部族に関する生活用具や住居、民俗が集められている。
                        
 文化村の入場門の前には四つの民族の人々がそれぞれに動物の毛皮等の民族衣装を纏った半裸体姿で7~8人待機しており、観光客が到着すると文化村の門前で歌を歌い楽器を奏でて歓迎してくれる。   

 この文化村には共同の演芸場と民芸品売り場等が備えられていて、民族舞踊や歌を披露してくれる。民族料理のレストランも設置されている。
   


 彼らの生活する住居もこの近くの林の中に村落の形で保存されていて実際にここで一族が生活しているのである。村落は民族毎に別々の場所に設置されていて、それぞれ5~6戸の住居と家畜小屋の単位からなっており、住居は草葺屋根の竪穴式住居に似た形態で室内には照明もなく床は土間である。中央に火を焚く小さな石組が並んでいるだけで丁度品らしきものもみあたらない。祈祷師の住居が特別に設けられている村もあった。


我々の見学した村の一つには酋長の二人の妻が同一村落内に生活しており住まいこそ分かれてはいるが、同じ村落内でそれぞれに顔を突き合わせて家事を分担して仲良く生活しているのを目撃した。一人は戸外に持ち出した石臼で粉を引き、その傍らで他の一人が子供の守をしていた。


 ズール部族では酋長は妻帯四人が公認されていて、牛13頭が嫁一人に相当するというから、人権意識やプライバシィー意識に馴染んだ我々には異様な生活に見えるのだが、生まれたときから生活とはそんなものだと信じこんでいる彼女等にはこれを異様と考える我々の方が不思議に見えるようである。文化の違いというものであろうか。

 そして彼らには容易にその属する部族の生活習慣や風俗を変えようとしないで伝統文化を守っていこうとする頑さがある。これを文明に目を背ける蒙昧な停滞とみるか自然と共生する心穏やかな安定とみるか、一種のカルチヤーショックを受けた体験であった。


 南アフリカ成立の歴史を簡単に繙いてみれば以下のようになる。


1.大航海時代の1488年にアフリカ南端の「嵐の岬( 後改名されて喜望峰) 」にポルトガルの航海者バートロミュ・ディアスが到着して東アフリカ事情を調査。


2.ポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマが1497年に喜望峰近くのセントヘレナ湾に上陸。
3.ポルトガル人達が喜望峰を放棄した後、1,652 年オランダ人ヤン・ファン・リーベックがオランダ東インド会社の東方貿易の寄港補給基地としてケープ植民基地の経営を開始し、野菜類の栽培を始めるためオランダ農民を入植させた。彼らがボーア人の先駆けである。当時この地方にはブッシュマン、ホッテントット等の土着民が生活していた。彼らはその後砂漠地帯へ追いやられたり、欧州人達が持ち込んだ病原菌に耐えられなくて死滅したりした。


4.ナポレオン戦争の時、1795年にオランダ領のケープ植民地はイギリス艦隊の襲撃を受け奪取された。その後1814年のウィーン会議の結果、イギリスの直轄領に編入されイギリス人の入植が引き続き行われた。


5.先着して生活基盤を築いていたボーア人達はイギリスの圧迫を嫌い自由な新天地を求めて1837年に北の内陸部へ大移動を開始した。家財道具を牛車に乗せ家族を連れて、アフリカ原住民の襲撃を防ぎつつ現在の自由州やプロビンス州まで1,600 kmにも及ぶ苦難の旅であった。とりわけズール族の襲撃は苛烈を極めた。


6.イギリス人の圧迫に抵抗してヴァール川の北方に定住したボーア人達は1,852 年イギリス政府に独立を承認させて旧南アフリカ共和国( 現在の国名と区別するためにトランスバール共和国と一般に呼称されている) を建設した。


7.1871年トランスバールのヨハネスブルグで金鉱が発見されるに及びイギリスはトランスバール共和国の併合を策したが、1,881 年マシュバの戦闘で敗北した。このためイギリスは一時併合の企図を放棄しプレトリア協定によって「女王陛下の宗主権のもとでの完全な自治」を認め、ついで1,884 年ロンドン協定により宗主権を捨て、外交上の制限を加えたほかは、共和国の凡その主権を認めた。


8.1,886 年頃トランスバール共和国で世界有数の金鉱が発見されるに及んでヨハネスブルグにはイギリス系等の在留外国人が激増し、時の第三代大統領ポール・クルーガーの共和国政府の打倒を狙う動きが活発となり、ジェームスン侵入事件のような露骨な事件まで起こった。


9.共和国政府はボーア人の民兵遊撃隊の迅速な動員によりこの難を逃れたが、イギリス高等弁務官ミルナーの強力な圧力により、1,899 年開戦を余儀なくされた。ボーア戦争である。


10. 共和国政府は執拗に抵抗したものの1,902 年遂に敗北しイギリス植民地に編入され、共和国政府は消失したが1,906 年に州として自治を認められ、1,910 年に南アフリカ連邦の一州となった。この時の南アフリカ連邦の構成はケープ植民地、ナタール、トランスバール、オレンジの四州であった。


11. この時の南アフリカ連邦の首相はポーター、副首相はスマッフで何れもボーア人であった。両者は連邦内閣を組織し第一次世界大戦では積極的にイギリスに協力してドイツ領の西南アフリカと東アフリカを征服した。戦後両者はパリの平和会議に出席し、スマッフは更に国際連盟創立者の一人となった。


12. 南アフリカ連邦の人口構成はボーア人やイギリス系の白人が僅か20%であるにもかかわらず、白人が排他的に政治権力を掌握し、パントゥ人( 黒人) 、インド人、カラード( 混血人) 等の非白人に対する人種差別政策を推進した。


13. 第二次世界大戦後にはナショナリスト党が政権を取り人種差別政策( アパルトヘイト) をおし進め1,961 年イギリス連邦を離脱し共和国となった。


14.1,989年に就任した国民党のデ・クラーク大統領はアパルトヘイト廃止の方向で改革路線を推進し、これによって1,990 年黒人解放組織、アフリカ民族会議のネルソン・マンデラが27年の禁固生活から解放され、1,991 年にはアパルトヘイト政策は全廃された。


15.1,994年初めての全国民総選挙の結果黒人指導者であるマンデラが新大統領に選出された。


16.1,999年にマンデラ大統領は引退し, 後継者にターボ・ムベキ大統領が就任した。
簡単に近代史を概観しただけでもこの国は欧州の白色人種達が利権を求めて争うエゴイズムに翻弄され、支配され続けて屈従の年月を過ごしてきた歴史であった。今白色人種の支配から解放されて新しい国作りに船出したばかりであり、新生の息吹のようなものを、中心街の猥雑な雑踏の中に感じ取ったのは一人筆者だけであっただろうか。


 ヨハネスブルグのホテルの近くのフリーマーケットを閉店ま近に訪問し、活気に満ちた庶民の台所を見学した。青空市場ではなく鉄筋コンクリート4 階建ての屋上駐車場も設置された建物が市場として提供されていて、生活用品や食品工芸品等が並べられていた。売り主は概してアフリカーナが多いように見かけたが、黒人の売り主もいた。一定の権利金さえ払えば誰でも店がだせるということであった。


 これで長かった一日は終わりホテルへチェックインしたが、予想通り同室の人は武田さんという絵が上手で登山を趣味とする横浜市本牧から参加した人であった。

平成13年12月10日(月) ジンバブエ訪問(別掲)
平成13年12月11日(火) ボツワナ訪問(別掲)

平成13年12月12日(水)
 朝9時半にホテルを出てクラフトビレッジへ立ち寄り、ブッシュマン等の住居を見学したが生憎、俄雨に遭遇したので写真もそこそこに土産物屋へ駆け込んで雨宿りをした。


 この日はヘリコプターに乗って滝を空から見学する予定であったが、生憎大統領が視察に来訪するとのことで警備上の必要からヘリコプターの飛行が禁止され、取りやめとなってしまった。その代わりにアドバルーンに乗って上空から滝の見学をすることになったが、雨のためこれも中止になってしまった。今回の旅行で雨に邪魔されたのはここだけであった。


 このあとヴィクトリアフォールズ空港からヨハネスブルグ空港を経由してケープタウン空港まで機上の人となった。過半の時間が移動のために費やされた一日であった。

 ケープタウンに到着したのは18時であったが、夏のためまだ日は高かった。出迎えたガイドはベンさんという日本生まれの日系人で植物の名前に詳しい人であった。

 折からテーブルマウンテンには雲がかかり、あたかもテーブルクロスをかけた趣があった。


 バスで一回りケープタウン市内を見学してからホテルに入った。印象に残っているのはケープ・マレー・スケアと呼ばれる地域である。ここはインドネシアからの移民が住んでいる地域でイスラム教信徒が多く、特色があるのはパステルカラーで町並みが華やかに彩られている光景であった。


平成13年12月13日(木)
 朝7時50分にホテルを出発してテーブル・マウンテンへ登った。折からの快晴で空は抜けるように青くテーブルマウンテンの頂上台地を散策しながら眺める四囲の風景は絶景であった。特にライオンズヘッドやケープ岬先端まで伸びる山並みは印象に残る光景である。ケープタウン市街地の展望も素敵な光景である。


 この後、喜望峰までドライブしたが途中、ハウト湾より舟でシールアイライドの海豹を見学に行ったり、ボルダーズ・ビーチでぺんぎんの棲息地を見学した。


 道々並木として植えられているユーカリの木に赤色や白色の花が咲いておりとても風情があった。ユーカリの花を見るのは初めての経験であった。またフィッシュ・ホーク・ギャレイで食べた生牡蠣は新鮮でとても美味しかったし昼食のメーンディッシュのロブスターも美味かった。


 ケープボイントの灯台まで山道を登り四囲に開ける雄大な景色を堪能した。


 再びケープタウンの市内へ戻り、ウォーターフロントのショッピング・モールでウインドウショッピングで時間を費やした。別に買い物があるわけでもないので与えられた時間を消化するのを持て余し、大道芸人が芸を披露するのを見て過ごした。


 今回の旅行の最後の晩餐をウォーターフロント内の洒落たレストランで食べたがイタリアレストランで魚料理であったのは嬉しかった。たまたま井上夫人の誕生日ということで店からケーキとキャンドルサービスがあり井上夫人の感激は極まり、晩餐会の雰囲気も大いに盛り上がった。


 日暮れまで時間があるのでウォーターフロント内を散策したら港の中にあざらしが集まっていて予期せぬ光景に一行は歓声を上げて喜んだ。


 暗くなるのを待ってシグナルポイントまでバスで登攀しケープタウンの夜景を見学した。ネオンサインが見当たらず、蝶々の羽の形で広がっている夜景はどこか函館を思い出させる光景であった。リオデジャネイロ、サイフランシスコと並んで世界の三大夜景であるとガイドのベンさんが言っていたが、うべなるかなとの思いであった。

 夜景の見学を終えて市内へ戻ってくるとクリスマスのイルミネーションが華やかに点滅しておりこれも錦上花を添える光景であった。かくして南アフリカの旅は最後の時を迎えたのである。


平成13年12月14日(金)
今日は南アフリカ最後の日である。朝9時にホテルを出発してカーステンボッシュ植物園へ行った。この植物園は、テーブルマウンテンの南東斜面に広がる、敷地面積560haの世界でも有数の植物園である。南アフリカ産の植物の保護育成にあたるため、南アフリカに育つ9000種類の植物が植えられ、その総数は20万本と言われている。


 斜面に広がっているためだらだらと登っていく通路は散策にはよい運動ではあるが汗をかきやすい。折から快晴で雲一つなく照りつける太陽の日差しはきつい。木陰へはいると空気が乾燥しているだけに汗がサット引き心地よい。花壇に沢山夏の可憐な花が咲いていた。エリカの花だけは覚えたがその他の花の名前はメモしておかなかったので、その時は判ったつもりになっていたが、今ではもう思い出せない。旅行中メモをとることには心掛けているつもりでもこうして日記を整理しているとメモ帳のどこにも書いていないのでがっかりする。その時は億劫でも心してメモしなければならないとつくづく思った。


 温室へはいるのは蒸し暑いだろうからやめて、配給されたランチボックスを芝生へ持ち込んで食べた。握り飯二つと沢庵が入っており、大根と厚揚げの煮染めが美味しかった。腹は全然すいていないが、何せ10時半に配給されて荷物になるものだから早めに食べた。飛行機に乗ればまた機内サービスがある筈なので、全部食べてしまうと消化不良をおこしてしまいそうである。鶏肉のから揚げは、腹にもたれるので捨てた。味噌汁はインスタントの物であったが久しぶりに美味しかった。

 食後芝生の上で時間まで昼寝をした。傍らでは同室の武田さんが熱心にスケッチをしている。今回の旅行では武田さんには二つの刺激を与えられた。一つは暇さえあればスケッチブックを開いてスケッチすることと、朝必ず腹筋運動をすることの二つである。これは帰国したら見習いたいと思ったことである。


 このあと空港へ向かい、ケープタウン空港からヨハネスブルグへ向かった。途中窓から外の景色をつぶさに観察したら、荒蕪地の山脈を幾つか越えてヨハネスブルグ近くなったとき、田畑が丸く作られている光景を目撃した。アメリカのロスアンジェルス空港近くで見たのと同じ光景である。


 ヨハネスブルグ空港では2時間も出発が遅れてしまっい離陸は20時になってしまった。持参したコスモス文学の残りの部分を読むことに専念した。やがて香港向け南アフリカ航空の機上の人となった。


 同じ飛行機には中国人の団体が乗っており賑やかなことこの上もない。


 夕食後持参したコスモス文学の残りの部分を読み切って捨てることができた。岩崎弥太郎の土佐商会長崎支店での物語であり、結構面白かった。このあと熟睡できたと思う。

平成13年12月15日(土)
 機内で夜をあかし気がついたら朝食の時間になっていた。ヨハネスブルグで出発が遅れた影響がでて香港では予定の飛行機に間に合わなかった。15時20分発の予定のところが次の便となり、16時40分に離陸できた。機内はガラガラで窓際の席で窓の外の光景を眺めることができた。機内サービスで貰った三杯の白ワインが効いて暫しうたた寝をした。目が覚めたら眼下に伊豆半島の夜景が広がっていた。成田空港へ到着するまで暫し日本の夜景を楽しんだ。

★理想の楽園Cubaに初上陸...

2010/08/31 04:08:14

街角には楽器を持ち歌う人たちが
その周りには思い思いにサルサを踊る人たちが
陽気で明るく平和な街

長い歴史の中でいろいろなことが繰り返されて今の
キューバの姿があるんだと思う。

今回はキューバの社会福祉を見るために医大と病院の見学に行きました。
キューバと言えばゲバラ。ゲバラと言えば医大生。
そんな思いつきではありますが、キューバとはイギリスなどと
同じく国民は医療を無料で受けられる国なんです。
キューバは教育も!
なので見学に行った医大には南米のチリやボリビアからの留学生も
多く、彼らにも無料で医学の勉強を教えているらしい。
キューバで医療を学び貧しい母国で医者になりたい!
そんなキラキラした瞳で語る彼らを見てなんとなく背筋を正した。

日本は1年間の軍事費が80兆円とも言われています。
想像もできないほどの額ですが、キューバはそういった費用を
全て医療や教育に使っているのです。
良く考えてみれば当たり前のシステム。全世界がそうすべきシステム。
医療や教育が受けられるかどうかというのは国の貧富とは
比例しないもの。

こういったことを勉強してからキューバに行ったので
キューバの社会システムを肌で感じて良く知ることができたような気がします。

1997夏、中国旅行記1(3):6月15日:西安・兵馬俑...

2010/08/29 03:08:15

<1997年6月15日(日)>

 翌日に備えて早く寝たせいか、7時のモーニングコールの前に目が覚めました。
 出発は8時半なので、ゆっくり朝食を済ませて、朝の散歩に出かけることができました。早速物売の人が寄ってきましたが、振りほどくのに余り苦労はいりませんでした。
 ホテルのすぐ近くで、新しいホテルと思われる建物工事中でした。歩道に停めたバスが、内部を改造し飯場代りに使われていました。それとなく覗いてみますと、2段ベッドがパイプを組んで設えてあり、驚いたことに若い女性用の宿泊バスもありました。路上で西瓜などを売っている人は、そのまま路上で夜を明かしたようでした。
 今日の古都巡りは、玄宗皇帝と楊貴妃の別荘として名高い華清池、三蔵法師がインドから持帰った経典を翻訳したと言われる大雁塔、秦の始皇帝陵の兵馬俑、顔真卿等の書碑を集めた碑林等盛沢山です。2度目に訪れる時は、いずれもゆっくりと時を過したい魅力的な所ばかりです。
 日本の季節と余り変りがないような気がしましたので、今日は吟行を楽しむこととしました。
 兵馬俑は余りの迫力に言葉を失いました。規模の大きさはさる事ながら、写実的な表情が生き生きとしていました。これが紀元前に造られたとは、俄かに信じることは困難です。
 職さんの説明では、顔かたち、ひげ等の表情だけで、十分にその人の出身地が判るとのことでした。胴体部分に対し、頭の部分は差込式になっていました。
 芭蕉は松島の余りもの絶景に絶句したと伝えられますが、今回の歴史旅行では、少なくともその時の気持だけは解った様な気がしました。
 華清池では、比較的最近の発掘調査で、玄宗皇帝の湯殿と楊貴妃の湯殿とが見つかったとの説明を受けました。湯殿の周りには、建物基礎の遺構も見付かっています。
 今は、これをさらに覆った建物が造られていて、回廊が設えられていました。湯殿には、今もお湯を導くことができ、楊貴妃(二人の?)の湯殿のお湯は淀んでいたものの、皇帝の湯殿は少し青みがかった、澄んだお湯が溢れていました。湯温は43度と聞きました。
 大雁塔は、7層になった建物の内部の階段を登ることができました。その最上階の窓から、西安の四方を眺めることができました。結構急な階段を登りましたので、少し足が攣りそうになってしまいました。
 碑林は、歴代の大書家の石碑を集めたものです。夥しい数の石碑が室内に立ててありました。昔、この石碑から拓本を採って科挙の試験に備えたそうです。
 孔子の「友あり遠方より来る また楽しからずや」等がはっきりと読み取れます。一番感銘を受けたのは、顔真卿の70歳の時のゆったりとした風格のある楷書でした。帰る時にもう一度ゆっくりと眺めさせて頂きました。今でも拓本を採っていて、、実際の作業も見ることができました。
 夕方は、食事の後、オショウと呼ばれる時代劇を観劇しました。歴史物語です。伴奏というより、打楽器のソロ演奏が、リズム、迫力があり、感心しました。
 おまけに夜は夜で、近くの屋台に5人で繰出して、シシカバブーをつまみにビールを飲みました。支払を巡って一寸したトラブルがあり、追加で40元(約600円)を支払いました。


  西安にて
 麦秋の終りて野焼ここかしこ

 撒水車朝一番の若葉哉

 燕の内庭巡る西大門

 大路にはポプラが似合う若葉哉
 
 空高く燕舞いて旅近し

 巡る度鳴き交しての旅支度

 大極拳朝靄の中音もなし

 新緑の下葉を焦す野焼哉

 日に焼けし歩道は白く槐花

 金銅の脇侍三彩夏木立

 三蔵の翻訳楼や薫る風

 大雁塔登りて古都の風渡る

 長旅の人を迎えて大路萌ゆ

 空低し燕低く庭を飛び

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